公爵家へ向かう馬車の中で
大広間から続く静かな回廊を抜け、カトリーナは学園の車寄せへと出ていた。
夕暮れ時の冷たい風が火照った頬を心地よく撫でる。
迎えの馬車が静かに滑り込んできあがると、御手が慌てて御者台から飛び降り深々と頭を下げて扉を開けた。
「お待たせいたしました、カトリーナ様」
御手の顔はどこか緊張で引きつっている。
それもそのはず、今までのカトリーナなら少しでも待たされれば容赦なく怒声や文句を浴びせていたのだから。
けれど、今のカトリーナは穏やかに頷くだけだった。
「ありがとう。……少し疲れたから、ゆっくり出してくださいね」
「は、はいっ! かしこまりました!」
思いがけない優しい言葉と労いに御手は目を丸くしながらも、慌ただしく御者台へと戻っていった。
馬車に乗り込みふかふかのシートに腰を下ろすとカトリーナは小さな吐息を漏らした。
重厚な木製の扉が閉まり、外の喧騒が遠のく。
ガタゴトと心地よい振動とともに馬車が動き出すと、カトリーナは車窓から流れる街並みをぼんやりと眺めた。
石畳の道路、西洋風の建物、そして行き交う人々。
前世で暮らしていた日本の風景とはまるで違う、おとぎ話のような世界。
(本当に……別の世界に生まれ変わったのねぇ)
膝の上に置いた自分の手を見つめる。
前世の自分の手は、毎日の水仕事で荒れ、節が太く、生活感が滲み出ていた。
けれど今の手は、白く繊細で、爪まで手入れされた綺麗な少女の手だ。
(山本ハツエ、五十二歳。病気であっけなく逝っちゃったけれど……五人の子どもたちはみんな立派に育って、仕事にもついて自立してくれた。……うん、私の母親としての仕事は、あっちでしっかりやり遂げたわよね)
貧乏で苦しいことも多かったけれど、後悔はない。
やり切ったという誇りと爽快感だけが胸に残っていた。
そして、今度はこの「カトリーナ」としての人生だ。
(カトリーナちゃん、十六歳……。ずいぶんと肩肘張って生きてきたみたいだけど、これからはもう少し肩の力を抜いて生きても罰は当たらないわよね)
記憶を辿ると、公爵家での生活も決して温かいものばかりではなかった。
厳しい父親、冷ややかな視線を向ける使用人たち。
カトリーナが高慢で刺々しい性格になった背景には、そうした寂しさや家庭環境も大きく影響していたようだ。
(家庭環境が冷え切っているのは、うちが昔貧乏でギスギスしていた頃にちょっと似ているかしら。……まあいいわ。まずは自分の部屋に帰って美味しいお茶でも淹れてもらいましょう)
馬車は夕闇が迫る街を抜け公爵家の屋敷へと向かってゆっくりと進んでいく。
カトリーナは小さく背伸ばしをすると、新しい人生の拠点となる「我が家」に思いを馳せるのだった。




