王子の反抗期なんて可愛すぎるわ
広間を包む圧倒的な静寂を背に受けて、カトリーナは優雅に絨毯の上を歩いていた。
誰からも声はかからない。
怒り狂って取り乱すと思っていた「高慢な悪役令嬢」が、あまりにもあっさりと、しかも完璧なマナーで去っていく姿に、周囲の貴族たちは完全に毒気を抜かれていたのだ。
(ふぅ……とりあえず、あの場を穏便に収められてよかったわ)
ドレスの裾をわずかに浮かせながら、カトリーナは心の中で小さく息を吐いた。
前世で5人の子どもを育てていた頃、何度も遭遇した「子どものかんしゃく」。
近所やスーパーの真っ只中で子どもが泣き叫んだとき、一番やってはいけないのは、一緒になって感情的になることだった。
落ち着いて、深呼吸をして、毅然とした態度で受け流す。
それが一番早く場を収める方法だと、何十年もの「母」としての経験が身体に染みついていたのだ。
(それにしても……体がちょっと重いわね)
記憶が混ざり合った反動か、それともカトリーナという少女の身体が普段から緊張でガチガチだったからか。肩から背中にかけて、嫌なコリを感じる。
そんなことを考えながら大広間の重厚な扉へ向かっていたとき、すれ違いざまに視界の端へ「ある人物」が入ってきた。
王子のすぐ後ろ、少し離れた位置に控えていた若い青年だ。
確か、リュシアン王子の側近を務めている男爵家の長男――レオンだったはずだ。
(……あら?)
カトリーナは歩調を崩さず、扇子の影からチラリとその青年を盗み見た。
整った顔立ちをした真面目そうな青年だが、その顔色は驚くほど悪い。
目の下にはドス黒いクマが張り付き、唇はカサカサに乾いている。
ピンと背筋を伸ばして立ってはいるものの、膝が微妙に震えており、呼吸も浅く早い。
(ちょっとあんた……大丈夫なの? 顔色が土気色じゃないの)
前世の記憶にある「無理をしすぎて倒れる直前の長男」の姿が、目の前の青年に重なった。
過労、睡眠不足、そしてたぶん栄養の偏り。
真面目な性格ゆえに限界まで我慢して、自分でも体調の異常に気づいていない顔だ。
(ここで倒れられたら、周りも大騒ぎになるし……何より若い子が無理して倒れるのを見るのは、寝覚めが悪いわ)
カトリーナは歩みを緩めることなく、自然な動作でドレスの小さなポケットに忍ばせていた「小瓶」を取り出した。
それは、以前のカトリーナが気付け薬代わりに持ち歩いていたハーブのタブレットだった。ミントと柑橘の香りが効いた、気休め程度のものだが、口に含めば少しは頭がスッキリするはずだ。
すれ違う一瞬。
カトリーナは扇子を少しだけ傾け、周囲の視線を遮ると、レオンの手元へそっと小瓶を滑り込ませた。
「……っ!?」
手元に伝わった硬い感触に、レオンの肩が跳ねる。
驚いて目を見開いた彼と、一瞬だけ視線が交差した。
カトリーナは声を出さず、ただ目元だけで「あとで舐めなさい」と優しく語りかけるように微笑み、そのまま通り過ぎた。
レオンは固まったまま、手に残された小さな小瓶と、去っていくカトリーナの美しい後ろ姿を交互に見つめていた。
(……カトリーナ様が、なぜ……?)
冷酷で、他人に興味など持たないはずの公爵令嬢。
そのはずなのに、手渡された小瓶からは、ほんのりと温かい柑橘の香りが漂っていた。
そんな側近の困惑など知る由もなく、カトリーナは大広間の重い扉を抜け静かな回廊へと足を踏み出していた。
(ふぅ……一番の大揉め事は、なんとか無事に乗り切れたわね)
婚約破棄という大騒動を無事にやり過ごすことができて、胸の奥でほっと安堵の息をつく。
記憶が戻ったばかりでまだ戸惑いはあるけれど、もうパニックになるような場面は過ぎたのだ。
カトリーナは気持ちを切り替えると、これから自分が暮らす「公爵家」の屋敷を目指して静かに歩みを進めたのだった。




