動き出す恋の予感
夕暮れ時、橙色の柔らかな光が差し込むグランヴェル公爵家の車寄せに無事馬車が到着した。
馬車の扉が開くと同時に、執事長のバートンが深々と頭を下げて出迎えた。
「カトリーナ様、お帰りなさいませ。学園でのお手続き、大変ご苦労様でございました」
「ただいま戻りました、バートン。あなたの心配をよそに、何事もなく無事に私物の整理も終わりましたわ」
カトリーナが馬車から降り立つと、エントランスにはミーナをはじめとする使用人たちが勢揃いし、心からの安堵と笑顔で彼女を迎えてくれた。かつて冷え切り怯えに満ちていたこの屋敷の空気は、いまやカトリーナを中心に優しく温かい「我が家」の温度を取り戻していた。
「カトリーナ様! お疲れ様でした! お部屋の温かいお茶と、シェフ特製の野菜スープのご用意ができておりますっ」
ミーナが嬉しそうに声を弾ませる。
「ありがとう、ミーナ。バートン、今日の夕食はお父様と一緒にいただくことはできるかしら?」
「もちろんでございます、カトリーナ様。閣下も本日は早めにお仕事を切り上げられ、カトリーナ様のお帰りをお待ちでございましたよ」
「まあ、お父様が……?」
食卓につくと、向かいに座るグランヴェル公爵はどこかソワソワとした様子でカトリーナの無事を確かめるようにチラチラと視線を送ってきた。
「……カトリーナ。学園での手続きは滞りなく済んだのか? リュシアン殿下や周囲の者たちに、不当な扱いを受けたりはしなかったか?」
不器用ながらも娘を心から案じる父親の言葉に、カトリーナは温かいスープを一口すくってから、ふんわりと微笑んだ。
「お父様、ご心配くださってありがとうございます。殿下もお忙しいようでしたし、私は自分の荷物を引き取って、正式な書類を提出してきただけですの。何も問題はございませんわ」
「そうか……。お前がそう言うなら良いのだが。……それにしても、今夜のこのスープも美味いな。身体の芯から温まる」
「ふふ、お気に召して幸いですわ。今が旬の野菜は甘みが強くて栄養もたっぷりですから」
自分の差し出した料理や提案を、不器用ながらも素直に受け入れてくれる父親。前世で頑固だった夫や年頃の息子たちと向き合ってきたカトリーナにとって、こうした家族のささやかな変化や団欒は何よりの報酬だった。
食後、自室の書斎でカトリーナが今日の手続きの控えを整理していると、コンコンと静かなノックの音が鳴った。
「カトリーナ様、夜分に申し訳ございません。バートンでございます」
「どうぞ、入ってくださいな」
扉が開くと、バートンが銀のお盆に乗せた一通の便箋と、小さなハーブティーのカップを恭しく運んできた。
「学園のレオン様より、カトリーナ様宛てに密書が届きました。本日のお礼と、今後の公務の進捗についてのご報告のようです」
「まあ、レオン様から?」
受け取った手紙には、整った美しい筆跡で、カトリーナの助言によってレオン自身の仕事が劇的に改善したこと、そして王子や学園の混乱に惑わされず己の責務を果たせていることへの深い感謝がつづられていた。
そして、手紙の最後にはこう結ばれていた。
『カトリーナ様の教えは、暗闇の中で路頭に迷っていた私の人生を照らす灯火のようです。いつかこの恩をお返しできるよう、尽力いたします。どうかご自愛くださいませ』
手紙を読み終えたカトリーナは、思わずクスクスと微笑んでしまった。
(あらあら……。本当に真面目で義理堅い子ねぇ。そんなに畏まらなくてもいいのに)
だが、その様子を見守っていたバートンは、少し目を細め、静かに、けれどどこか感慨深そうに呟いた。
「カトリーナ様。レオン様は……貴女様の真の聡明さと温かさに、心底救われたご様子ですね。……かつてこのお屋敷で、私どもがカトリーナ様の深遠なお心に気づかされた時のように」
「バートンまで、そんな大袈裟なことを言って……。私はただ、困っている若者や家族をほうっておけないだけですよ」
「ふふ、それがカトリーナ様の何よりのお人柄でございます。……ですが、これからはカトリーナ様ご自身の幸福も、どうか第一にお考えくださいませね」
バートンは温かい眼差しで深く頭を下げ、静かに部屋を退出していった。
一人残された部屋で、カトリーナはハーブティーの湯気を優しく見つめた。
前世では家族のために駆け抜け、5人の子供を育て上げた。
そして今、悪役令嬢 カトリーナとして始まった第二の人生。
最初は「反抗期の王子をあやす」感覚で始まったドタバタ劇だったが、気づけば周りの大人たちや苦労人たちが彼女の包容力と知恵に惹かれ集まり始めていたのだった。




