積み重なる綻びとオカンの真価
事務棟での手続きを終えたカトリーナは、応接室の窓辺に立ち中庭の木々が秋風に揺れる様子を静かに眺めていた。
手元には、学園側とのすべての手続きが完了したことを示す書類が綺麗に整えられている。
あとはこれを提出し、サロンに置いてある私物の小箱を引き取れば、カトリーナの「学園での未練」は綺麗さっぱり片付くはずだった。
「……お待たせいたしました、カトリーナ様」
ドアが開き、戻ってきたレオンの表情は、先ほどカトリーナから助言とメモを受け取った時とは一変していた。
疲弊しきっていた瞳にはどこか一本の芯が通り、緊張感の中にも落ち着きが戻っている。
「レオン様、手続の確認をありがとうございます。ご体調は少し落ち着かれましたか?」
「はい。カトリーナ様からいただいた温かいお言葉とあの的確な整理表のおかげで、自分のなすべきことがはっきりと見えました。……これまでは、殿下の不興を買うことを恐れるあまり、私がすべてを引き受けて抱え込むのが側近の誠意だと勘違いしていたようです」
レオンは深く、丁寧に一礼した。その背筋はピンと伸びている。
「殿下には先ほど、本来殿下ご自身が署名・確認すべき公務書類の束をお渡しし、『これ以上は私の権限では代行できかねます』とはっきりとお伝えしてまいりました」
「あら……まあ! それで、殿下は何とおっしゃいましたの?」
カトリーナが少し驚いたように目を丸くすると、レオンは苦笑混じりに息を吐いた。
「激怒され、『使えない側近だ』と書類を机に叩きつけられました。ですが、私が引かないと分かると、今度はマリエラ嬢に甘えるように文句を並べておられましたよ。……もっとも、マリエラ嬢は領地経営や王家の公務に関する書類など一切読めませんから、困惑して顔をひきつらせておられましたが」
(まあまあ……。典型的な『自分の宿題を他人に押し付けようとして断られ、甘えさせてくれる人のところに逃げ込む』パターンねぇ)
前世で、夏休みの宿題を最終日まで溜め込んで半泣きになっていた子どもたちの姿が頭をよぎり、カトリーナは思わず口元をほころばせた。
「子どもが自分で宿題をやろうとしない時はね、叱りつけるよりも『やらないと自分が困る』という現実を見せてあげることが一番の薬なのですの。レオン様、よく勇気を出して境界線を引かれましたわね。偉いですわ」
「っ……! 偉い、だなんて……」
カトリーナの包み込むような労いの言葉に、レオンの耳たぶがふっと赤く染まった。
彼は一国の最高峰である王立学園を優秀な成績で収め、若くして第一王子の筆頭側近に抜擢された秀才だ。
周囲からは常に「完璧」であることを求められ、失敗は許されず、結果を出して当たり前だと叩き込まれてきた。
誰かから自分の苦労を理解され、努力そのものをこうして温かく肯定されたことなど人生で一度もなかったのだ。
(このお方は……どうしてこれほどまでに人の心を見抜き、欲しい言葉をくださるのだろう)
胸の奥がじんわりと熱くなり、レオンの胸中にこれまで抱いたことのない不思議な感情が芽生え始めていた。
「さあ、レオン様。私もサロンから私物を受け取って、そろそろお屋敷へ戻りますわね。バートンが今夜は美味しい旬のお野菜スープを用意して待ってくれているはずですもの」
「あ……あの方のお名前まで……。かしこまりました。サロンまで、私が責任を持ってお供させていただきます」
レオンは優雅に手を差し出し、カトリーナは微笑みながらその手にそっと自分の手を重ねた。
ふたりが事務棟を後にし、サロンへと続く回廊を歩き始めると、すれ違う生徒たちの雰囲気が先ほどとは明らかに変わっていた。
いつもなら身勝手な振る舞いでレオンを振り回していた王子が、書類の山を前に生徒会室で取り乱しているという噂はあっという間に学園内に広まっていたのだ。
そして、その混乱の渦中で一人静かに、かつ圧倒的な気品と大人の余裕を保ち続けるカトリーナの姿。
「ねえ……やっぱりカトリーナ様って、すごく素敵じゃない?」
「ええ。殿下が取り乱しておられるのに、あんなに優雅でお優しくて……。側近のレオン様も、カトリーナ様と一緒の時の方がずっと晴れやかなお顔をされているわ」
囁き交わされる称賛と憧れの視線。
しかし、カトリーナ自身はそんな周囲の評価などどこ吹く風で、「今日の夕食の献立」と「公爵家の庭の手入れ」に思いを巡らせているのだった。




