第8話 役ではない手
仮審問のあと、リーナは熱を出した。
大きな発作ではない。ミラ医師によれば、緊張と移動で体力を使った反動だという。それでも、額に触れた時の熱さに、私の胸は一瞬で縮んだ。
「今日はもう何もさせません。話を聞くのも、書類を見るのも禁止です」
ミラ医師は私とカイ辺境伯の両方に言った。
「特にエリシア様。あなたも座ってください。患者の付き添いが倒れると、患者が余計な心配をします」
「私は大丈夫です」
「大丈夫な人は、そういう顔をしません」
医師に言われると、反論しにくい。
私はリーナの寝台脇に座った。リーナは薬を飲み、少し眠ったあと、薄く目を開けた。
「エリシア様、怒ってない?」
「どうして怒るの」
「法廷で、お父様に戻りたくないって言ったから」
「怒りません」
「お父様、悲しかったかな」
私はすぐに答えられなかった。
子どもは、自分を傷つける人の悲しみまで背負おうとする。そうしなければ、家が壊れると思ってしまうのだろう。私も似たことをしていた。ジェラルドの不機嫌を防ぐため、ロアン母娘の顔色を見て、公爵家の親族に頭を下げていた。
「リーナ」
私は、毛布の上に置かれた小さな手を包んだ。
「誰かが悲しむからといって、あなたが苦しい場所へ戻る必要はありません」
「でも、わたしが我慢したら、皆が怒らなかった」
「皆が怒らない家と、あなたが息をできる家なら、どちらを選びたい?」
リーナはしばらく考えた。
「息をできる家」
「私もです」
リーナの目に涙がたまった。
「エリシア様も、息ができなかった?」
「少し、できませんでした」
初めて口にした。
公爵家での私は、妻として立ち、後妻として笑い、母役として世話をしていた。役をこなしている間、息を止めていることに気づかなかった。リーナの咳ばかり見て、自分の胸の苦しさは見ないふりをしていた。
リーナは、私の指を握り返した。
「じゃあ、一緒に息をする?」
「ええ。一緒に」
そのやり取りを、扉の外でネラが聞いていたらしい。あとで湯を持ってきた時、彼女は目を赤くしていた。今度は湯気のせいにしなかった。
午後、リーナが眠っている間に、私はカイ辺境伯から呼ばれた。
書斎に入ると、彼はいつものように書類を前にしていたが、机の端に見慣れないものが置かれている。小さな布袋だった。
「王都中央薬舗から返答が来た。公爵家名義で正規薬を注文した記録はあるが、受け取り人の署名が途中から変わっている」
「誰の署名ですか」
「ベイン医師の助手名義だ。だが、その助手は半年前に辞めている」
カイ辺境伯は布袋を開けた。中には、薬包の紙片と、小さな印章の欠けた部分が入っている。
「偽造紙を刷った印刷所の一つが、昨日の夜に火事を出した。幸い、火はすぐ消えた。そこからこれが見つかった」
「火事……証拠隠滅ですか」
「可能性が高い。だが、火をつける前に片付けが雑だった。焦げ残りは証拠になる」
彼はいつもの口調だった。
私は思わず聞いた。
「辺境伯閣下は、怖くないのですか」
「何が」
「証拠を集めれば集めるほど、相手が追い詰められます。追い詰められた人は、何をするか分かりません」
カイ辺境伯は、少し黙った。
「怖い」
意外な答えだった。
「怖いが、証拠を集めないほうがもっと怖い。人は忘れる。泣いた顔も、咳の音も、やがて『大げさだった』に変えられる。紙に残したものだけが、忘れたい者の手を止める」
彼は机の上の紙片を指で押さえた。
「私の弟は、十歳で死んだ。医師の見立てが違うと母が訴えたが、当時の家令が記録を捨てた。父は家の体面を優先し、母は泣き寝入りした。証拠がなければ、死んだ子どもは『病弱だったから仕方ない』になる」
部屋の空気が、静かに重くなった。
私は、カイ辺境伯がなぜ慈悲では動かないと言ったのか、少し分かった気がした。
慈悲は、持っている人間の機嫌で消える。証拠は、機嫌が悪い日にも残る。
「だから、私は紙を残す」
カイ辺境伯の声は低かった。
「情がないと言われるが、情だけで守れなかったものを知っているだけだ」
私は言葉を探した。
慰めは軽すぎる。謝罪も違う。結局、私にできたのは、机の上の紙片を見て頷くことだけだった。
「では、リーナのことも残しましょう」
「残す」
「苦しかったことだけでなく、蜂蜜湯を飲めたことも、呼び鈴を鳴らせたことも、粥を三口食べたことも」
カイ辺境伯が私を見た。
「それも証拠か」
「はい。あの子が生きようとしている証拠です」
彼の表情が、ほんの少し柔らかくなった。
「良い記録だ」
褒められるより、認められたという感じがした。
その夜、私はリーナの体温表に新しい欄を作った。
食事、薬、咳、睡眠。
その下に、小さく「できたこと」と書く。
呼び鈴を鳴らした。蜂蜜湯を半分飲んだ。法廷で自分の言葉を言えた。エリシアと一緒に息をすると約束した。
リーナは熱でぼんやりしながら、その欄を見つめた。
「できたことも、書いていいの?」
「もちろん」
「じゃあ……泣かなかったことは?」
「書きます。でも、泣いてもいいことも書きます」
リーナは少し笑った。
「それ、変なの」
「変でも正確です」
カイ辺境伯の口癖のように言うと、リーナがくすくす笑った。
役ではない手。
妻の役でも、母の役でもなく、誰かの言葉を紙に残し、熱い額を拭き、眠るまで手を握る。ただそれだけのことを、私は初めて自分の選択として受け止めていた。
夜更け、リーナが眠ったあと、窓の外で雪がまた降り始めた。
今度の雪は、怖くなかった。




