第6話 公爵家の寒い朝
※公爵家側の視点です。
ロアン男爵未亡人は、冬の部屋に入って三十分で機嫌を悪くした。
部屋は確かに南向きだった。窓は大きく、朝の光は床の上に明るい四角を作っている。けれど、彼女が想像していた貴婦人の客間とは違う。壁紙は淡い黄色で、棚には子ども用の小さな本が並び、寝台の脇には薬湯を置くための丸机が固定されている。
さらに、暖炉の上には体温を記した板が掛けられていた。日付と数字が細かく書かれ、咳の回数や食事量まで残っている。
「気味が悪いわ」
未亡人は扇で鼻先を払った。
「病人の部屋みたいじゃないの」
「実際、病人の部屋でしたから」
カミラはそう言いかけて、母の目つきに気づき、慌てて笑った。
「でも、お母様に合うよう整えさせますわ。ねえ、マルクス」
家令マルクスは、床に置かれた療養器具を見下ろしていた。調整弁の一つが外れている。昨夜、使用人が邪魔だと言って壁際の木箱を移動させた際、配管から外してしまったらしい。
「職人を呼びます」
「いらないわよ、そんなもの。足元が暖かいのはよいけれど、壁から変な音がするの」
未亡人が寝台に腰を下ろす。寝台は子ども用に低く作られているため、彼女の体格には合わなかった。
「これも替えて。もっと大きくて柔らかいものに」
「承知いたしました」
マルクスは頭を下げたが、内心では舌打ちしていた。
冬の部屋は、リーナの母方の金で改修された。設計も特殊で、勝手に家具を入れ替えれば温水管や換気の流れに支障が出る。だが、部屋を譲れと命じたのは公爵であり、今の客人は公爵が大切にしている女の母だ。
逆らえる者はいない。
その公爵ジェラルドは、昨夜から怒鳴り続けていた。
朝食の席でも、彼は皿にほとんど手を付けず、王立監察局からの受理通知を握りしめている。
「馬鹿げている。エリシアがリーナを連れ去ったのだぞ。なぜ私が審問に呼ばれる」
「旦那様、監察局は未成年者の療養環境について確認するだけです。正しく対応すれば、すぐにお嬢様は戻ります」
マルクスはそう言った。
戻る。戻ってくれなければ困る。
リーナが不在のまま監査が入れば、療養費の流れを細かく調べられる。公爵家の帳簿には、見られたくない数字がいくつもある。薬代を正規の額で計上し、実際には安い薬を仕入れた差額。薪代の名目で処理した賓客費。療養室維持費として出した金で、ロアン母娘の宝飾代を払った月もあった。
それらは、リーナが公爵家にいて、エリシアが黙っていれば問題にならなかった。
あの後妻は、黙っている女だった。
いつも丁寧に礼をし、足りない薬代を自分で補い、リーナの世話をしていた。怒りを飲み込むのが上手すぎて、マルクスは彼女を軽く見ていた。
「エリシアは精神的に不安定だ。そう書け」
ジェラルドは、筆記係に命じた。
「先妻の子に異常に執着している。父親である私の判断に従わず、夜中に連れ出した。妻としての役割も放棄した」
「旦那様」
マルクスは一歩近づいた。
「その表現は、明日の審問で確認される可能性があります。昨夜、部屋を明け渡せとお命じになったことも」
「事実だ。何が悪い。リーナは少し咳が出るだけだ。いつまでも特別扱いしていれば、貴族の娘として弱くなる」
その言葉に、食堂の端にいた若い下働きが目を伏せた。
リーナの咳が少しではないことを、屋敷の者は知っている。夜中に胸を押さえて苦しむ音も、エリシアが眠らずに看病する姿も、見ていないふりをしていただけだ。
カミラが、明るい声で話題を変えた。
「ジェラルド様、明日の審問などすぐ終わりますわ。エリシア様はご実家も弱いでしょう? 辺境伯が味方したといっても、所詮は一時的な保護ですもの。お父様であるジェラルド様に勝てるはずがありません」
「当然だ」
ジェラルドは少し機嫌を直した。
「リーナは私の娘だ。エリシアに何の権利がある」
その時、玄関ホールから騒ぎが聞こえた。
王立監察局の使者が、追加の通達を持ってきたのだ。
マルクスが受け取った書面には、リーナの診察結果と薬包の分析が記されていた。薬の配合が薄い。療養室の移動は危険。公爵家の会計と実支出に不一致があるため、予備監査を開始する。
文字を追ううち、マルクスの背中に冷たい汗が流れた。
「何と書いてある」
ジェラルドが苛立って紙を奪う。
数行読んで、彼の顔が歪んだ。
「薬が薄い? 会計不一致? こんなもの、エリシアのでっち上げだ!」
「王立医師の署名があります」
「医師など買収されたに決まっている!」
その声は、食堂に響いた。
響きすぎた。
扉の外にいた使用人たちが、静まり返る。王立医師を買収と断じる言葉は、貴族の怒声として片付けるには危うい。
マルクスは目を閉じた。
証拠など、紙切れだと思っていた。公爵家の名と、父親の権利と、妻の沈黙で押し切れると思っていた。
けれど、紙切れは増えていく。
一枚、また一枚。
薪のように積まれた紙は、火をつけられた時、公爵家の古い壁まで燃やすのかもしれない。
冬の部屋では、ロアン未亡人がまた不満を漏らしていた。
「この部屋、暖かいはずなのに寒いわ。誰か、もっと薪を持ってきて」
薪庫の扉は開いている。
けれど、その薪代が誰の財布から出ていたのかを、彼女は知らない。




