第5話 証拠は薪よりよく燃える
翌朝、カイ辺境伯は書類の山を抱えて私の前に現れた。
朝食を終えたリーナがミラ医師の診察を受けている間、私は隣室の机で記録を整理していた。昨夜から眠った時間は短いが、眠れないなら手を動かしたほうがいい。そう思って台帳を日付順に並べていたところへ、辺境伯が無言で箱を置いた。
「公爵家の公開会計写しだ」
「どうしてここに」
「王都の監察局に取り寄せさせた。公爵家は大貴族だが、王領の補助金を受けている。補助金を受ける家の会計は、一定範囲で閲覧できる」
彼は椅子に座り、紙束を三つに分けた。
「薬代。薪代。療養室維持費。あなたの手元の記録と照合する」
「今からですか」
「審問は明日だ。今からでなければ遅い」
正論だった。
私は自分の台帳を広げ、二人で数字を追い始めた。カイ辺境伯の読み方は速いが、雑ではない。一つの支出に印を付け、別紙の領収書と結び、矛盾があれば紙片を挟む。
淡々とした作業なのに、ページをめくるたび、胸の奥で火が起こる。
「この月、公爵家の会計では高級薬草『銀葉草』が三袋購入されています」
「実際に届いたのは一袋です。薬師に不足を問い合わせたところ、公爵家からの注文は一袋だけだと言われました」
「差額は」
「二十六銀貨」
「この月は薪代も倍になっている」
「冬の部屋の薪は、私費で買いました。公爵家の薪庫からは『客間用が足りない』と断られています」
カイ辺境伯が紙片を挟んだ。
「面白いな」
「面白くはありません」
「失礼。監査上、意味のある矛盾だ」
彼は真面目に訂正した。
私は少しだけ肩の力が抜けた。この人の言葉は冷たいが、こちらが抗議すれば修正する。公爵家で「言い方が悪い」と指摘すれば、私が神経質だと笑われただけだった。
午前の終わりに、ネラが茶を運んできた。盆の上には小さな焼き菓子もある。
「リーナ様が、奥様にも食べてほしいと」
「リーナが?」
「はい。自分だけ甘いものをもらうのはずるい、と」
焼き菓子は、林檎を薄く挟んだ素朴なものだった。私は一つ口に入れる。甘さが控えめで、疲れた頭にちょうどいい。
カイ辺境伯も当然のように一つ取った。
「閣下も召し上がるのですね」
「リーナ嬢が二人分と言ったなら、記録上は二人分だ」
「記録のために焼き菓子を?」
「食べられるものは食べる主義だ」
ネラが横で小さく吹き出した。
公爵家では、食卓の会話はいつも誰かの機嫌を損ねないためのものだった。ここでの会話は、用件の隙間に息ができる。たったそれだけで、机に向かう手が軽くなる。
午後、ミラ医師が薬包の簡易分析結果を持ってきた。
「薬草の配合は正規の半分以下。代わりに安価な乾燥草が混ぜられています。害は薄いですが、効き目も薄い。長期的には治療遅延の原因になります」
「誰がそんなことを」
「薬舗の印は偽造です。紙の出所を辿る必要があります」
カイ辺境伯が、机に地図を広げた。
「王都中央薬舗の包み紙を扱う印刷所は三つ。偽造紙を出せるとすれば、下町の小さな印刷所か、家令の伝手だ」
私はマルクスの顔を思い出した。
温和な目。丁寧な言葉。毎月のように「奥様、今は公爵家の財政が」と言った声。
「家令マルクスは、支出帳に触れられます」
「医師ベインも処方内容を知っている。薬師が関わっている可能性もある。誰が主犯かは、まだ断定しない」
断定しない。
その言葉は私を少し冷やした。怒りは必要だが、怒りだけで書類を見ると、見たいものだけ見てしまう。リーナを守るためには、私の怒りも証拠の順番に従わなければならない。
夕方、カイ辺境伯の部下が公爵家の動きを報告した。
「アルヴェルト公爵は今朝、王立監察局に抗議文を提出。夫人が精神的に不安定で、娘を連れ去ったと主張しています。ロアン男爵未亡人は南棟二階の部屋へ移ったとのことです」
部屋が、胸の中で一瞬だけ空になった。
リーナの寝台。薬棚。窓辺の小さな椅子。毎朝、日が差すとリーナが指で光の形を追っていた場所。
そこに、ロアン未亡人がいる。
怒りより先に、気持ち悪さが来た。
「療養器具は」
「一部は使用人廊下に出されています。温石の調整弁が外された形跡あり」
カイ辺境伯の表情が変わった。ほんのわずか、目の奥の温度が下がる。
「調整弁を外せば、床下の温水管が不安定になる。子どもが戻った時に危険だ」
「戻しません」
私の声は、自分でも驚くほど強かった。
「リーナを、あの部屋には戻しません。冬の部屋は大切でした。でも、あの家にある限り、また奪われます」
カイ辺境伯は、少しだけ頷いた。
「その発言も明日使える」
「感情も使えるのですか」
「感情は証言になる。事実と結びついていれば」
彼は紙に短く書いた。
私は手元の台帳を見た。
薬代、薪代、療養室維持費。数字は冷たい。けれど、その数字の下に、リーナの咳、ネラの徹夜、バルドの蜂蜜生姜、私が売った真珠の耳飾りがある。
証拠は薪よりよく燃える。
薪は一晩の暖を取る。証拠は、嘘で凍った家を内側から焼く。
夜、リーナの部屋へ戻ると、彼女は呼び鈴を枕元に置いて絵を描いていた。ミラ医師が退屈しのぎに紙と色鉛筆をくれたらしい。
「何を描いているの?」
「新しい部屋」
紙の上には、四角い窓と、丸い暖炉と、椅子が三つ描かれていた。
「椅子が三つあるのね」
「エリシア様と、ネラと、カイ様」
「カイ様も?」
「証拠を書く机がいるから」
私は笑って、絵の端に小さな机を描き足した。
リーナは満足そうに頷く。
「ここには、お父様の椅子はいらない」
静かな声だった。
私は何も言わず、リーナの髪を撫でた。
子どもが父親の椅子を描かない。その事実は、どんな台帳より重かった。
明日の審問で、私はこの重さを言葉にしなければならない。
役を降りるだけでは終わらない。妻でも母役でもない私は、リーナを守るために、エリシア・クロフォードとして証言台に立つ。
そう思うと、怖さが戻ってきた。
けれど、怖さの向きは合っている。
私はリーナの絵を丁寧に乾かし、書類鞄の一番上へ入れた。




