第4話 温かい部屋は泣かせる
リーナが目を覚ましたのは、翌朝の薄明るい時間だった。
窓の外はまだ雪景色だが、空の色は夜の黒ではなく、牛乳を薄めたような白に変わっている。診察室から移された客間は、南向きではない。けれど床は冷えず、壁の内側を通る温水管のおかげで、空気が柔らかく保たれていた。
暖炉の火は小さく、乾いた薪の匂いがする。寝台の脇には水差し、薬湯、体温表。私が公爵家で毎朝そろえていたものと同じなのに、ここでは誰も「また大げさに」と言わない。
リーナはぼんやり天井を見て、次に私を見た。
「夢じゃない?」
「夢ではありません」
「お父様のお屋敷じゃない?」
「違います。ノルデン辺境伯閣下の別邸です」
リーナはしばらく黙り、毛布を少し持ち上げた。自分の足元に、マリアンヌ様の膝掛けがあるのを見つけると、ほっとしたように肩を落とす。
「冬の部屋じゃないのに、寒くない」
「この部屋もよくできています。ミラ先生が、寝台の位置まで見てくれました」
「ミラ先生、蜂蜜湯をくれた人?」
「そう」
リーナは小さく頷いた。
「じゃあ、いい人」
子どもの判断は、ときどきとても早い。私は笑ってしまい、濡らした布でリーナの額を拭いた。
扉が控えめに叩かれ、ネラが朝食の盆を運んできた。粥、薄い鶏のスープ、蒸した林檎。リーナ用には、すべて一口分ずつ小さな器に分けられている。
「辺境伯閣下からです。食べられなければ残してよい、食べられたものだけ記録するように、と」
「食べられなかったら怒られる?」
リーナが不安そうに聞く。
ネラはすぐに首を振った。
「怒られません。食べられないことも、先生には大事な記録だそうです」
「記録……」
リーナは私の顔を見た。
「エリシア様がいつも書いていたのと同じ?」
「同じです」
「じゃあ、食べられない時も嘘をつかなくていい?」
「もちろん。食べられたふりをすると、体が困ってしまいます」
リーナは考え込むように匙を見つめた。それから、粥をほんの少しすくって口に運ぶ。
一口。
喉を通るまで、私は息を止めていた。リーナが飲み込むと、ネラが目元を押さえた。
「ネラ、泣いてる?」
「湯気です」
「湯気は横に流れないよ」
リーナの声はまだ掠れているが、少しだけからかう余裕が戻っていた。ネラは困った顔で笑い、窓の方を向く。
私も笑った。笑ったら、急に胸が痛くなった。
温かい部屋は人を泣かせる。
寒さの中では、泣くより先に動かなければならない。薪を足す。薬を計る。濡れた布を替える。誰かに頭を下げる。体を動かしている間、心は凍ったままでも役に立った。
けれど、温かい部屋に入ると、凍っていたものが溶けて形をなくす。溶けた水は、どこからか目に上がってくる。
私はリーナの髪を撫で、泣かなかった。今泣くと、この子が不安になる。
代わりに、体温表へ「粥、一口」と書いた。
午前の診察が終わる頃、カイ辺境伯が部屋を訪れた。手には書類ではなく、小さな木箱を持っている。
「起きているか」
「はい」
リーナは寝台の上で背筋を伸ばそうとした。咳が出そうになり、慌てて私が支える。
カイ辺境伯は眉一つ動かさず、木箱を机に置いた。
「無理に礼をする必要はない。患者が礼儀で悪化した場合、医師が私を叱る」
「ミラ先生、辺境伯様を叱るの?」
「よく叱る」
リーナは目を丸くした。
カイ辺境伯は木箱の蓋を開けた。中には、小さな銀の呼び鈴が入っている。柄に白狼の模様が彫られていた。
「この部屋の鈴だ。苦しくなったら鳴らせ。水が欲しい時、寒い時、誰かに来てほしい時も鳴らせ」
「怒られない?」
「鳴らすべき時に鳴らさないほうが怒られる」
リーナは呼び鈴を見つめ、そっと触れた。ちりん、と澄んだ音が鳴る。
すぐに廊下から足音がした。侍女が顔を出し、リーナが慌てて「間違えました」と言うと、侍女は笑って「試験成功です」と答えた。
そのやり取りだけで、リーナの頬に薄く色が戻る。
「辺境伯様」
「カイでいい。長い名は体力を使う」
「カイ様。わたし、ここにいていいの?」
カイ辺境伯は即答しなかった。
曖昧な慰めを言う人なら、すぐに「もちろん」と言っただろう。けれど彼は、言葉を選んでいた。
「今日と明日は、医師の判断でここにいる。その後は監察局の仮裁定に従う。君がここにいたいかどうかも、記録に入る」
「子どもが言っても?」
「子どもの体についての話だ。本人の言葉を聞かない記録は欠陥品だ」
リーナの目が、少しだけ輝いた。
自分の言葉が記録になる。公爵家で、リーナの言葉はいつも「子どものわがまま」として薄められていた。薬と同じように。
「じゃあ、書いてください」
「何を」
「ここは、息がしやすいです」
カイ辺境伯は黙って頷いた。
彼が本当に手帳を取り出して書いたので、リーナは嬉しそうに布団を握った。私はその光景を見て、また泣きそうになった。
昼前、王立療養監察局へ第一報が送られた。カイ辺境伯の部下が、診断書と薬包の分析結果、搬送経緯をまとめる。私は自分の損害一覧を書き始めた。
装身具を売った日。薪代を払った月。夜会を欠席してリーナの看病をしたために流された噂。ジェラルドが「後妻ならそのくらい」と笑った言葉。
書き出すほどに、私は自分がどれだけ黙っていたかを知った。
午後、監察局から返事が届いた。
明後日、王都の小法廷で仮審問を行う。リーナの保護継続、公爵家からの接触制限、薬代不正の予備監査について判断する、という内容だった。
カイ辺境伯は書面を読んで、短く言った。
「早いな。公爵家が先に抗議したのだろう」
「ジェラルドが?」
「娘を連れ去られた被害者として動いたはずだ。だが、抗議は記録になる。こちらには医師の所見がある」
私は窓の外を見た。
雪はやんでいる。雲の切れ間から、薄い光が差していた。
公爵家の冬の部屋ほど南向きではない。それでも光は、リーナの枕元まで届いている。
「怖いですか」
カイ辺境伯が聞いた。
私は正直に頷いた。
「怖いです。でも、あの部屋に戻るほうがもっと怖い」
「なら、恐怖の向きは合っている」
変な励ましだった。
けれど、その言葉は胸に残った。怖くないふりをしなくていい。怖いものの方角を間違えなければ、足は動く。
夕方、リーナは粥を三口食べた。呼び鈴を一度鳴らし、水を頼んだ。侍女に怒られないと分かると、少し照れて「ありがとうございます」と言った。
その夜、私は寝台の脇で眠る準備をした。
ネラが簡易寝台を用意してくれたが、私は椅子に毛布をかけただけで十分だった。すると、リーナが布団の中から手を伸ばす。
「エリシア様」
「なあに」
「母役をやめたのに、そばにいてくれるの?」
胸の奥が、静かに痛んだ。
「役だからいたわけではありません」
「じゃあ、どうして?」
「あなたの手を握りたいからです」
リーナはしばらく黙っていた。
やがて、私の指をぎゅっと握る。
「じゃあ、わたしも握りたい」
温かい部屋で、子どもの手が少しずつ温まっていく。
私はその手を離さないまま、窓の外に積もる雪を見た。
明後日の審問。公爵家の抗議。薄められた薬。消えた療養費。
問題は山ほどある。
それでも今夜、リーナは息をしている。
それだけで、戦う理由は十分だった。




