第3話 辺境伯の契約
ノルデン辺境伯の王都別邸は、王都の外れにあった。
別邸と呼ぶには質素で、砦と呼ぶには窓が多い。灰色の石壁に雪が積もり、門灯の火が風のたびに小さく揺れる。華美な彫刻も庭園もないが、門から玄関までの道には雪が払われ、馬車が横付けできるよう砂が撒かれていた。
それだけで、私は息をついた。
リーナを抱いて馬車を降りると、出迎えた女医がすぐに毛布を広げた。濃い栗色の髪を一つに結び、白衣の上から厚手の肩掛けを羽織っている。
「ミラ・ハーウェルです。王立医師の資格を持っています。お嬢様をこちらへ」
診察室は玄関の奥に用意されていた。暖炉は焚かれているが、暑すぎない。乾いた布、湯、清潔な器、薄い寝巻き。すべてが手の届く場所にある。
私はリーナを寝台へ下ろし、外套を脱がせた。ミラ医師は手早く胸音を聞き、脈を取り、喉を見た。カイ辺境伯は部屋の入口に立っている。邪魔をしない距離だが、逃げる者を逃がさない距離でもあった。
「冬咳の慢性化。発熱。脱水の手前。胸の奥に湿った音があります」
ミラ医師は淡々と言った。
「南向きの療養室が必要という前の診断は妥当です。今夜あの部屋を出るのは危険でしたが、部屋を奪われるよりはましです。薬は?」
「こちらです」
私は薬包を渡した。
ミラ医師は薬紙を開き、匂いを確かめた途端、眉を寄せた。
「配合が薄い。記録より半分以下です」
「半分……」
私は思わず声を漏らした。
この薬は高価だ。毎月、公爵家の会計に不足分を請求し、支払われなければ私の装身具を質に入れた。薬師には正規の配合で頼んだはずだった。
「薬師が間違えた可能性は」
「あります。ですが、薬紙は王都中央薬舗のものではありません。紙の質が違います。中身を詰め替えたか、別の薬舗から似せて出したか」
リーナが薄く目を開けた。
「エリシア様……わたし、悪い子じゃない?」
「悪い子ではありません」
返事が早すぎて、ミラ医師が少しだけこちらを見る。
リーナの指が、毛布を握りしめた。
「お部屋を取られたら、お父様は喜ぶの?」
「喜ぶかどうかは、あの人が決めることです。私たちは、あなたが息をしやすい場所を選びます」
リーナは考えるように瞬きをした。熱で頬が赤いのに、目だけは怯えたまま澄んでいる。
「じゃあ、ここは……息をしてもいい場所?」
私は答えようとして、喉が詰まった。
代わりに、ミラ医師が毛布を整えながら言った。
「ここは診察室です。患者は息をするのが仕事です。上手にできたら、あとで蜂蜜湯を一口だけ許可します」
リーナが小さく笑った。
その笑い方があまりに久しぶりで、私は目を伏せた。泣いている暇はない。けれど、泣きそうになるくらいの隙間は、人間に必要なのだと思った。
診察が一段落すると、カイ辺境伯が私を隣室へ呼んだ。
隣室には大きな机があり、書類を広げるための重石とインクが並んでいる。暖炉の上には、北境の地図。壁際には椅子が二脚だけ。無駄のない部屋だった。
「医師の初見は記録した。次に、あなたの証拠を照合する」
カイ辺境伯は、椅子を勧めるより先に書類箱を開いた。
「座っても?」
「もちろんだ。倒れられると調書が遅れる」
冷たい言い方なのに、机の端には温かい茶が置かれていた。湯気の中に、干した林檎の香りが混じっている。
私は椅子に座り、鞄から書類を取り出した。
リーナの体温表。咳の回数。食べられた量。薬の受け取り日。冬の部屋の薪の量。暖炉の修理費。南棟に入った使用人の名。
三年間、誰にも褒められなかった記録が、机の上で束になる。
「細かいな」
「細かくしないと、リーナの苦しさは『子どもは大げさだ』で片付けられます」
「良い判断だ」
褒められたのだと気づくまで、少し時間がかかった。
カイ辺境伯は表情を変えず、薬代台帳を見ている。数値を追う指が速い。
「公爵家の会計帳では、薬代は毎月満額支出されている」
「はい」
「あなたの私費からも同じ薬代が出ている」
「はい。会計から届かなかった月に」
「つまり、帳簿上は二重に支払われている。実物の薬は薄い。横領の疑いがある」
その言葉が、薪よりも乾いて部屋に落ちた。
私は茶を飲んだ。指が震えないよう、両手で杯を包む。林檎の酸味が舌に残る。
「ジェラルドは、リーナを嫌ってはいます。けれど、病状を悪化させていたとは……」
「悪意があってもなくても、結果は変わらない。子どもの薬が薄くなり、療養室が奪われようとした」
カイ辺境伯は、私の迷いを切るように言った。
「あなたは何を求める」
「リーナの安全な療養環境。公爵家からの後見権の停止。薬代と療養費の流れの監査。関わった者の処罰」
「あなた自身の慰謝料や離縁条件は」
私は少し黙った。
ジェラルドへの怒りはある。屈辱もある。けれど、それを言葉にするより、リーナの呼吸を整えるほうが先だった。
「後回しで構いません」
「それは駄目だ」
カイ辺境伯が、初めてきっぱりと否定した。
「自分の権利を後回しにし続ける者は、相手に『この人間は後回しにできる』と学習させる。子どもを守るなら、あなた自身の損害も記録しろ」
言い返せなかった。
私は三年間、そうしてきた。妻として波風を立てない。母役として我慢する。後妻として贅沢を言わない。そうやって自分を後回しにした結果、リーナの薬まで後回しにされたのだとしたら、私は優しかったのではなく、都合が良かっただけなのかもしれない。
「……書きます」
「なら、契約を更新する」
カイ辺境伯は新しい紙を出した。
「リーナ嬢の臨時保護先はノルデン別邸。介護者はエリシア・クロフォード。王立医師の診断を受け、明朝、監察局へ報告。公爵家からの接触は、書面か監察官立ち会いの面会に限る」
「公爵家が拒めば」
「拒む自由はある。拒んだ記録も証拠になる」
その言葉に、私は初めて小さく笑った。
「辺境伯閣下は、本当に証拠がお好きですね」
「証拠は嘘をつく人間より長持ちする」
真顔で返されて、私は笑いを止めきれなかった。疲れのせいかもしれない。けれど、笑い声が出た時、胸に詰まっていた冷たいものが少し溶けた。
扉の向こうから、ネラの足音がした。
「奥様、リーナ様が蜂蜜湯を飲まれました。少し眠れそうです」
「すぐ行きます」
立ち上がると、カイ辺境伯が契約書の写しを私へ渡した。
「エリシア・クロフォード」
「はい」
「あなたが母役を降りたことは理解した。だが、今夜したことは、役ではなく行動だ。そこは間違えるな」
私は紙を受け取った。
その重さは、指輪よりずっと確かだった。
診察室へ戻ると、リーナは眠っていた。頬の赤みはまだ強いが、呼吸は少しだけ深くなっている。窓の外では雪が続いている。公爵家の南向きの冬の部屋ではない。けれど、ここには清潔な布と、正しい薬と、嘘を嫌う人たちがいる。
私は寝台の横の椅子に座り、リーナの手を握った。
同じ頃、公爵家では、返された鍵束を前にしてジェラルドが怒鳴っているだろう。ロアン未亡人は冬の部屋を手に入れたかもしれない。けれど、その部屋にリーナはいない。薬代の帳簿もない。体温表もない。
空になった部屋は、何を温めるのだろう。
答えは、明日から監査が教えてくれる。
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