第2話 雪の街道と保護令
裏階段は狭く、石壁が夜の冷気を吸っていた。
リーナを抱いたまま降りるには危ない。けれど、正面階段へ出ればジェラルドの親族と使用人頭に囲まれる。私は片腕でリーナの背を支え、もう片方の手で手すりを掴んだ。ネラが先に降り、足元の燭台を一つずつ確かめてくれる。
「寒くない?」
「少しだけ」
リーナは私の肩口に額を寄せた。熱がある時の子どもの体は、抱いている人間の胸を痛くするほど頼りない。背中越しに咳が小さく震えるたび、私は一段ごとに呼吸を数えた。
十段。踊り場。さらに十二段。
厨房脇の扉まで来ると、老料理人のバルドが待っていた。彼は普段、私に愛想を振りまく人ではない。けれど今夜は白い髭を震わせ、布に包んだ瓶を差し出した。
「奥様、煮出した蜂蜜生姜です。馬車の中で薄めてお飲ませください。甘くしすぎておりません」
「ありがとう、バルド」
「礼は要りません。冬の部屋の薪を、いつも奥様の財布から出していたことくらい、厨房の者は知っております」
言い終えると、バルドは厨房へ戻った。扉が閉まる直前、彼は小さくリーナに頭を下げた。
味方は少ないと思っていた。けれど、少ない味方がいないわけではない。
裏庭へ出ると、雪は本降りになっていた。馬車小屋の前に、私の実家から持ち込んだ小型の馬車が待っている。豪華ではないが、座席の下に温石を入れられる作りだ。御者台にはネラの兄であるトマがいた。彼は緊張で耳まで赤くしながら、手綱を握っている。
「奥様、東門は閉じられました。ですが、洗濯場横の通用門なら」
「通用門で十分です。王立施療院の予約票は?」
「こちらに」
ネラが革筒を掲げた。
私はリーナを馬車の寝台へ寝かせた。外套の上から膝掛けを重ね、薬包、湯たんぽ、体温表、診断書の写しを手元の鞄へ入れる。最後に、王立療養監察局が発行した一枚の紙を確認した。
緊急保護搬送令。
未成年者の療養環境が急変する恐れがある場合、指定の介護者が王立施療院または監察官のいる施設まで搬送できるという、滅多に使われない制度だ。申請には、診断書三通、支払い記録、現場の証言、そして父権者が療養を妨げる明確な言動が要る。
今夜の晩餐で、最後の一つが揃った。
馬車がゆっくり動き出す。車輪が雪を踏む音は、絹を裂くように静かだった。
通用門の前で、家令マルクスが待っていた。
彼は年配の男で、公爵家に二十年以上仕えている。私にはいつも礼儀正しいが、リーナの薬代を「今月は予算が厳しい」と言い続けてきた人でもあった。
「奥様、お引き返しください。旦那様の許可なくお嬢様を連れ出せば、誘拐と見なされます」
「この搬送令を門番に見せなさい」
ネラが革筒から紙を取り出し、マルクスへ差し出す。彼の目が、署名欄で止まった。
「王立療養監察局……」
「門を開けて」
「しかし、これは一時搬送の許可にすぎません。公爵家の後見権が消えたわけでは」
「そうですね。だから施療院で審査を受けます。その前にここで止めるなら、あなたは医療搬送妨害の責任を負います」
マルクスの喉が動いた。
彼は私ではなく、馬車の中のリーナを見た。あの子が起き上がれば同情を誘えると思ったのかもしれない。けれど、リーナは薄い布の奥で眠っている。今夜くらい、あの子を交渉の道具にさせない。
「奥様」
マルクスは声を低くした。
「公爵家を出て、どこへ行かれるおつもりです。ご実家のクロフォード伯爵家は、アルヴェルト公爵家と争うほど余裕のある家ではないでしょう」
「だからこそ、証拠を集めました」
「証拠で冬は越せませんよ」
「薪は買えます。嘘では買えません」
馬車の扉の向こうで、リーナが咳き込んだ。
私は返事を待たず、御者台へ短く告げた。
「トマ、進んで」
門番が迷う。マルクスが止めようと手を上げる。だが、その時、通用門の外から馬の蹄の音が重なった。
一頭ではない。三頭、五頭、もっと多い。
門の外で、低い声がした。
「王立療養監察局の搬送令を確認する。門を開けろ」
マルクスの顔から血の気が引いた。
門が軋んで開く。吹き込んだ雪の向こうに、黒い外套を着た騎士たちが並んでいた。先頭の男は、銀灰色の髪を短く束ね、襟元に北境の白狼紋を留めている。
カイ・ノルデン辺境伯。
冷淡で知られる、北境の監察貴族。父が一度だけ、王都で会うなり「氷を人の形にしたような男だ」と評したことがある。
その氷のような男が、雪の中で私の馬車を見上げた。
「エリシア・アルヴェルト公爵夫人か」
「今夜までは、その名前です」
私が答えると、カイ辺境伯の目が少しだけ細くなった。
「申立書は読んだ。だが、私は慈悲では動かない」
「承知しています」
「子どもが可哀想だ、妻が冷遇された、という話だけなら王都の茶会でやれ。私が欲しいのは、搬送令を正当化する証拠と、今夜以降の責任を負う契約だ」
言い方は冷たい。けれど、その冷たさはジェラルドのように人を踏むためではなく、足場の薄い氷を確かめるためのものに見えた。
私は鞄を開けた。
「診断書三通。薬代台帳。公爵家の支出帳写し。薪の購入記録。冬の部屋の設計図。リーナの体温表。すべてあります」
カイ辺境伯は、騎士の一人に合図をした。ランタンの明かりの下で、書類が一枚ずつ確認される。雪が紙に落ちないよう、ネラが外套の裾を張ってくれた。
「介護者としての覚悟は」
「あります」
「金は」
「私財が三ヶ月分。足りなければ、装身具を売ります」
「公爵家が追ってくる」
「逃げるだけなら負けます。ですから、施療院ではなく、監察官のいる場所へ行きます」
カイ辺境伯はしばらく私を見た。
馬車の中で、リーナがまた咳をした。小さな音なのに、雪の夜にはよく響く。カイ辺境伯の視線が扉へ移る。感傷はなかった。ただ、病状を測る医師のように真剣だった。
「私の別邸に王立医師がいる。北境から戻る途中で、今夜だけ王都郊外に滞在している。そこまで同行する」
マルクスが慌てて声を上げた。
「辺境伯閣下、これは公爵家の内々の問題です」
「未成年者の医療記録に不備があるなら、内々ではない」
カイ辺境伯は、マルクスを見なかった。見る価値もないと言うより、すでに書類の一部として扱っているようだった。
「エリシア夫人。保護契約を結ぶ。あなたは子どもの療養を優先し、監察に必要な記録を隠さない。私は安全な移動と医師の診断を提供する。どちらかが嘘をつけば、契約は破棄される」
「契約書は」
「用意している」
騎士が薄い板に挟んだ書面を差し出した。雪の夜に契約書を持って現れる男を、私は初めて見た。
けれど、なぜか笑いそうになった。
リーナを守るためなら、薔薇の晩餐より、雪の中の契約書のほうがずっと頼もしい。
私は署名した。
エリシア・クロフォード。
公爵家の姓ではなく、生まれた家の姓を使った。カイ辺境伯の目が一瞬だけその字を追い、何も言わずに自分の名を書き添える。
「出発する。吹雪が強くなる前に着くぞ」
馬車が門を抜けた。
振り返ると、公爵家の窓に明かりがいくつも灯っている。誰かが走り、誰かが叫び、春の薔薇で飾られた晩餐室は、きっともう温かくない。
私は前を向いた。
リーナの細い手が、布団の下から伸びて私の指を探す。握り返すと、彼女は目を閉じたまま、ほんの少しだけ息を吐いた。
雪の街道は暗い。
けれど、暗い道は、公爵家の中よりまっすぐだった。




