第1話 冬の部屋を明け渡せ
公爵家の晩餐室は、春の花で飾られていた。
外では雪が降っている。窓硝子の向こうに白い粒が流れ、北風が庭の糸杉を揺らしているというのに、長卓の中央には温室から切り出した薔薇が盛られ、銀の燭台が赤い花弁を照らしていた。
火の入った暖炉は二つ。私の席からは遠いが、客人の席はよく暖まる配置だ。
夫であるジェラルド・アルヴェルト公爵は、私の隣ではなく長卓の正面に座り、そのすぐ側にカミラ・ロアン嬢を控えさせていた。婚姻の席で妻が座るべき距離に、夫の寵姫がいる。親族たちは見ないふりをし、使用人たちは見えていないふりをしていた。
私は膝の上で、薄い絹の手袋を整えた。
今日の晩餐に呼ばれた時点で、ろくな話ではないことは分かっていた。けれど、階上の南棟で眠っているリーナの咳が少し落ち着いたばかりで、私はできるだけ早く席を外すつもりでいた。
「エリシア」
食後の甘い葡萄酒が配られた頃、ジェラルドが声を上げた。
「明日の午前中までに、南棟二階の部屋を空けてもらう」
銀匙が皿に触れる小さな音が、一斉に止んだ。
私は、聞き間違いではないかと考えた。けれど、ジェラルドはすでに勝ち誇った顔をしていたし、カミラ嬢は口元を扇で隠しながら、母親のロアン男爵未亡人の肩へ手を添えている。
「南棟二階の、リーナの部屋のことでしょうか」
「そうだ。冬の部屋と呼ばれている、あの無駄に日当たりの良い部屋だ」
無駄、という言葉で、私の指が手袋の縫い目を押した。
あの部屋は亡き前妻マリアンヌ様の実家が、リーナのために改修した部屋だ。南向きの窓。床下に通した温石の溝。湿り気を逃がす二重壁。冬咳を持つリーナにとって、薬と同じくらい大切な療養室だった。
ロアン未亡人が、わざとらしく咳払いをする。
「わたくし、この王都の寒さに慣れておりませんの。膝も悪くて。カミラのそばにしばらく滞在するなら、暖かい部屋が必要でしょう?」
必要。
その言葉は、どれほど便利なのだろう。欲しいものに被せれば、奪うことまで正当化できる。
「ロアン夫人のご不調にはお見舞い申し上げます。ですが、リーナは医師から南棟の部屋で冬を越すよう指示されています。暖炉の火力、窓の位置、薬湯を置く棚の高さまで、すべて診療記録にあります」
私がそう言うと、ジェラルドの眉間に皺が寄った。
「また診療記録か。君はいつも紙の話ばかりだな」
「紙にしなければ、リーナの咳は誰にも見えませんから」
言ってから、少しだけ後悔した。リーナの名前を出すと、この人は不機嫌になる。
予想どおり、ジェラルドは葡萄酒の杯を置き、椅子に深く背を預けた。
「リーナは公爵家の娘だ。父である私が決める。君は後妻として、あの子の母の役目を果たせばいい」
「母の役目とは、療養に必要な部屋を奪うことでしょうか」
「口答えをするな。君が本当に母親のつもりなら、家全体の調和を考えるべきだ。ロアン夫人は大切な客人だし、カミラはこの家の未来に関わる女性だ」
親族の一人が、低く笑った。
「後妻なら、先妻の子に執着しすぎるのも見苦しいわね」
「実の母でもないのに、母親気取りをして」
声は小さい。けれど、リーナの部屋の扉の前で、薪を数えていた私の耳には届く。
私はナプキンを畳み、席を立った。
椅子が床をこする音がする。晩餐室の空気が、薔薇の香りごと固まった。
「では、母役の座はお返しします」
ジェラルドが、ぽかんとした。
「何を言っている」
「実の母でもない私が母親気取りをしていると、皆様がおっしゃいました。ですから、その役を降ります」
私は左手の指輪を外した。公爵夫人の指輪は、冬でも冷たい。掌に置くと、金属が皮膚の熱を奪っていく。
「妻の座も、お返しします。私はもう、あなたの妻として客人に部屋を譲るつもりも、母役としてリーナに我慢を強いるつもりもありません」
「エリシア、冗談はやめろ」
ジェラルドが立ち上がる。彼の顔色が、ようやく怒りに変わった。
「君はアルヴェルト公爵夫人だ。私の許可なく、この家を出られると思っているのか」
「公爵夫人でなくなれば出られます」
「離縁など認めない」
「認めていただく必要はありません。白い婚姻の不履行、療養費の不正使用、未成年者の医療放置。すでに王立療養監察局へ申立書を出しています」
カミラ嬢の扇が、ぴたりと止まった。
ジェラルドは一瞬、意味が分からない顔をした。次に、私が持っていた小さな革鞄へ視線を落とす。
晩餐に革鞄を持ち込む妻など、礼儀を欠いている。だからこそ、誰も中身を見ようとしなかった。
「診断書、薬代台帳、薪の搬入記録、リーナの体温表、南棟の鍵の複製登録。全部、写しを作りました」
私は鞄から鍵束を出し、長卓の上へ置いた。
南棟の冬の部屋の鍵。夫婦寝室の鍵。公爵夫人の執務室の鍵。小さな音を立てて、順に銀の皿の上へ並ぶ。
「本鍵はお返しします。写しは、王立監察局と施療院に保管されています」
「貴様……!」
初めて、ジェラルドは私を妻ではなく敵として見た。
その視線に、私は安堵した。妻として期待されるより、敵として見られるほうがずっと分かりやすい。
「リーナは今夜、王立施療院の診察を受けます。緊急搬送許可が出ています。父親であるあなたが療養室を奪うと公言したため、保護対象になりました」
「私の娘を連れ出す気か!」
「あなたが守らないなら、守る人間が連れて行きます」
そう言った時、晩餐室の扉が開いた。
私付きの侍女ネラが、青ざめた顔で立っている。腕にはリーナの外套。小さな靴。薬包を詰めた布袋。
「奥様、リーナ様の支度が整いました」
ネラの声は震えていたが、手元は乱れていない。三年かけて私が彼女に教えた、急患搬送の支度だ。
私は頷き、ジェラルドへ最後に向き直った。
「明日までに部屋を明け渡せとおっしゃいましたね。今夜中に明け渡します。ただし、ベッドも薬棚も、リーナの療養記録も、あの子と一緒に運びます。あの部屋を必要としていたのは、公爵家ではなくリーナですから」
ロアン未亡人が、顔を真っ赤にして何か言いかけた。
けれど、私はもう聞かなかった。
母役でも妻でもなくなると決めた途端、足が軽くなった。廊下へ出ると、冬の空気が肌を刺した。階上から小さな咳が聞こえる。
私はドレスの裾を持ち上げ、走った。
リーナの部屋の扉を開けると、薄い金髪の少女が寝台の上で上体を起こしていた。熱で潤んだ瞳が、私を見つける。
「エリシア様……お父様、怒っていませんか」
「怒っています」
正直に答えると、リーナは泣きそうな顔になった。
私は寝台の脇に膝をつき、小さな手を両手で包んだ。指先は冷たい。暖炉が燃えていても、体の芯までは届いていない。
「でも、あなたが悪いことは何もありません。今夜、ここを出ます」
「わたし、邪魔なの?」
「違います。あなたを邪魔者にする家が、私たちには要らないだけです」
リーナの瞳が、大きく揺れた。
私は外套を彼女の肩へかけ、薬包を確認し、窓辺に置いていた小さな木箱を抱えた。中には、マリアンヌ様がリーナに残した羊毛の膝掛けと、私が三年間つけてきた体温表が入っている。
廊下の向こうで、男たちの怒鳴り声が近づいていた。
「ネラ、裏階段を」
「はい」
私はリーナを抱き上げた。八歳の子どもにしては、驚くほど軽い。
この軽さを、もう誰にも利用させない。
冬の部屋の暖炉で、薪がぱちんと爆ぜた。最後の火の音を背中で聞きながら、私はリーナを抱いて、公爵家の奥へ伸びる暗い廊下を進んだ。




