最終話 母役でも妻役でもなく
次の冬が来る頃、リーナは少し背が伸びていた。
まだ病弱であることに変わりはない。走り回れるわけではないし、冷たい風に長く当たれば咳が出る。木札は今も枕元にあり、薬も、記録も、医師の診察も続いている。
けれど、彼女はもう、寒さを一人で我慢する子どもではなかった。
朝、リーナは自分で札を選ぶ。
「今日は黄色です。午前に相談室、午後は休みます」
そう言って、予定表に小さな印をつける。疲れたら青へ替えることを、恥ずかしがらなくなった。咳が出たら水を求め、怖い夢を見た日は鈴を鳴らす。
鈴は、鳴らされるためにある。
その言葉は、ノルデン城の中で誰もが知る合図になっていた。
冬の部屋基金は、北境だけでなく近隣の領にも広がり始めている。支援先は増え、監査表も厚くなった。手続きは楽ではない。寄付者の中には、名誉だけを求めて規約を嫌がる者もいる。支援を受ける側にも、家の事情を知られたくないという迷いがある。
それでも、相談室の鈴は鳴る。
鳴るたびに、誰かが扉を開ける。
私はその音を聞くたび、雪の街道で握ったリーナの手を思い出す。
あの日、私には未来の制度も、婚礼も、春の庭も見えていなかった。ただ、南向きの冬の部屋を奪われたら、この子は壊れてしまうと思った。だから出た。
泣きつかなかったのは、強かったからではない。
泣きつく相手を、もう間違えたくなかったからだ。
今、私の隣にはカイがいる。
彼は夫になっても、私を急かさない。基金の会議では厳しい意見を出し、リーナの体調表には細かすぎるほど目を通し、夜には私の肩に外套を掛ける。愛の言葉は多くないが、鈴が鳴れば必ず動く。
それは、私にとって何より信じられる愛だった。
ある雪の日、私たちは南向きの相談室に集まった。
リーナ、カイ、ネラ、ミラ医師、ベルモンド侯爵、クロフォードの父と兄、そして基金の会計官たち。部屋は少し狭く感じるほどだった。
相談室の開設から一年を迎えるため、小さな記念の会を開いたのだ。
会計官が報告書を読み上げた。
支援件数。改善された部屋の数。医師へ繋がった相談者。返還された不正な薬代。まだ解決していない課題。
良い数字だけではない。できなかったことも記録されている。支援が遅れた家もあった。親族の妨害で、保護手続きまで時間がかかった子もいた。
私はその部分を、消さなかった。
記録は、飾るためだけにあるのではない。次に間に合わせるためにある。
報告が終わると、リーナが前に出た。
彼女は小さな紙を持っている。少し緊張しているようで、私を見た。私は頷き、カイは入口のそばで静かに見守った。
「わたしは、冬の部屋にいました」
リーナの声は細いが、部屋に届いた。
「寒いと、息がしにくいです。怖いと、もっと息がしにくいです。でも、鈴を鳴らしたら来てくれる人がいると、少し息ができます」
彼女は紙を握り直した。
「この部屋が、そういう場所でありますように。鈴を鳴らしてもいい人が、増えますように」
短い言葉だった。
けれど、部屋の中にいる誰もが、その意味を分かっていた。
拍手が起こる。
リーナは驚いたように目を瞬き、それから照れたように笑った。
会が終わったあと、彼女はできたこと帳を持って窓辺に座った。外では雪が降っている。去年と同じ白い雪なのに、窓の内側にいる私たちは、もう同じではない。
「何を書くの?」
私が尋ねると、リーナは少し考えた。
「長くなります」
「いいわ」
彼女は丁寧に書いた。
リーナ、冬の部屋から出て、冬の部屋を作る人になった。
私はその一行を見て、言葉を失った。
カイが私の隣に立つ。
「泣くか」
「泣きます」
「手巾はある」
彼は当然のように差し出した。
私は笑いながら受け取り、涙を拭いた。
リーナはできたこと帳を閉じ、私を見上げた。
「エリシア様」
「はい」
「わたし、あなたをお母様と呼ぶのが好きです。でも、それは役じゃないです」
胸の奥が、静かに震えた。
「分かっているわ」
「カイ様の奥様でも、基金の代表でも、エリシア様はエリシア様です」
私は膝を折り、リーナの手を取った。
「ありがとう」
妻の座も、母役の座も、あの日私はお断りした。
そして今、私は母と呼ばれ、妻として隣に立ち、代表として鍵を持っている。
矛盾しているようで、少しも矛盾していない。
押しつけられた座を断ったから、選び直すことができたのだ。
リーナが私を選び、私がリーナを選び、カイが隣の席を差し出し、私がそこへ座ることを選んだ。そこにある呼び名は、誰かが命じた役ではない。
積み重ねた日々についた名前だ。
外では雪が降り続いている。
けれど、南向きの部屋には火が入り、椅子があり、鈴がある。
寒い人が来れば、扉を開ける。
泣きたい人がいれば、手巾を渡す。
記録が必要なら、紙を用意する。
私は窓辺に立ち、雪の庭を見た。
もう、冬の部屋を明け渡せと言われても、怯えることはない。
この部屋は、誰か一人のために閉じ込める場所ではなく、春へ向かうために開かれた扉だから。
リーナが鈴を鳴らした。
小さな音が、部屋に澄んで広がる。
「点検です」
リーナが真面目に言う。
廊下から、ネラの声がすぐに返った。
「お呼びでしょうか」
みんなで笑った。
カイが記録表に書く。
呼び鈴、正常。家族、応答。
私はその文字を見て、深く息を吸った。
冬は来る。
寒い日も、怖い夜も、消えてなくなるわけではない。
それでも、鈴が鳴れば誰かが来る家で、私たちは何度でも春を待てる。
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