第52話 公爵家の冬が終わる
アルヴェルト公爵家の最終監査報告が届いたのは、北境の夜会から十日後だった。
封筒は王都監査院のものだった。厚みがあり、何枚もの証明書が同封されている。私は相談室の机でそれを受け取り、カイと向かい合って開いた。
報告は、感情のない文章で書かれていた。
横領された療養費の返還手続き。関与した親族への処分。家令マルクスの証言に基づく会計制度の変更。ベイン医師の資格停止と薬房への制裁。ジェラルドの一定期間の領務停止と、後見権制限の継続。
それらが一つずつ、印章と署名で確定していた。
最後に、リーナ名義の財産目録があった。
前妻マリアンヌが遺した宝飾、蔵書、温室関連の小さな権利、そして療養費として本来積み立てられるはずだった金額。多くは失われていたが、取り戻せるものは取り戻され、今後はベルモンド家と辺境伯家の共同監督下に置かれる。
「終わったのですか」
私は尋ねた。
「法的には、一つの区切りだ」
カイは報告書を閉じた。
「心が同じ日に終わるとは限らない」
「はい」
私は窓の外を見た。
公爵家の冬が、報告書一枚で消えるわけではない。リーナの体には、寒さと薄い薬の影響が残っている。私の中にも、晩餐室で向けられた視線や、妻として黙れと言われた夜が残っている。
けれど、紙には力がある。
診断書がリーナを守った。薬代台帳が嘘を暴いた。裁定書が後見を確定した。そしてこの報告書は、あの家で起きたことを、なかったことにはできないと告げている。
夕方、私はリーナに報告した。
難しい部分は省き、必要なことだけを伝える。あなたの財産が守られること。勝手に連れ戻されないこと。薬代をごまかした人たちが罰を受けたこと。お父様は、しばらくあなたに会うことを求められないこと。
リーナは静かに聞いていた。
「お父様は、寒い?」
思いがけない問いだった。
「どういう意味?」
「公爵家の冬の部屋は、もうないでしょう? 誰も、暖かくしてくれないのかなって」
私は少し考えた。
「お父様には、お父様自身が暖炉に薪を入れることを覚える時間が必要なのだと思うわ」
「誰かが入れてあげないの?」
「最初から誰かに任せていたから、リーナの部屋が寒くなったの。だから、今度は自分で気づかないといけない」
リーナは膝の上の木札を見た。
「お父様にも、青の札があったらよかった?」
「そうかもしれないわね。でも、青の札を出すだけでは足りないの。誰かの赤い札を無視しないことも、覚えないといけない」
彼女は深く頷いた。
その夜、リーナはジェラルドから以前届いていた手紙を出した。まだ開けていなかったものだ。
「読むの?」
「今日は、封だけ見ます」
彼女は封筒を手に取り、しばらく眺めた。
「まだ、読まない」
「それでいいわ」
「でも、捨てない」
「ええ」
リーナは小さな箱に手紙を入れた。箱には、マリアンヌの温室記録の写しと、ベルモンドの花の押し花、できたこと帳の古いページが入っている。
「いつか読むかもしれない箱にします」
「いい名前ね」
リーナはその箱に札をつけた。
いつか読むかもしれない箱。
それは、許す箱ではない。忘れる箱でもない。
急がなくていいものを、急がず置いておくための箱だ。
報告書の写しは、相談室の記録棚に収めた。もちろん、個人情報は封じ、鍵をかける。けれど、制度を作るための教訓として、必要な部分は残す。
カイは棚の鍵を回し、確認した。
「これで、公爵家の冬は記録に入った」
「記録に入ると、終わるのでしょうか」
「終わるというより、勝手に形を変えて戻ってくることを防げる」
私はその言葉を受け止めた。
過去は消えない。
けれど、記録にすることで、過去は怪物ではなくなる。名前を持ち、場所を持ち、必要な時だけ開けるものになる。
リーナはその夜、できたこと帳にこう書いた。
リーナ、いつか読むかもしれない箱を作った。
私はその箱を棚に置き、部屋の灯りを落とした。
公爵家の冬は、ようやく閉じられた。
鍵は、リーナの手の届く場所にあった。




