第51話 北境の夜会
北境の夜会は、王都の夜会と違っていた。
宝石の輝きは控えめで、代わりに暖炉が大きい。音楽は軽やかだが、窓や扉の隙間には厚い布がかけられている。客人のための椅子には膝掛けが置かれ、体調を崩した者が休める小部屋も用意されていた。
それは、冬の部屋基金への寄付を募る夜会だった。
私は辺境伯夫人としてではなく、基金代表として挨拶をすることになっている。もちろん、婚姻によって私の肩書きは変わった。けれど、今日の壇上で語るのは、誰かの妻だからではない。
冬の部屋を出たエリシアとしてだ。
控え室で原稿を確認していると、カイが入ってきた。
「顔色は」
「大丈夫です」
「手は冷たい」
「緊張しています」
「当然だ」
彼は私の手に温かい茶を渡した。
「王都からの客もいる」
「知っています」
「嫌なら、私が前に立つ」
「いいえ。今日は私が話します」
私がそう言うと、彼は短く頷いた。
「では、隣にいる」
その言葉だけで、呼吸が整った。
会場には、以前の私を知る人もいた。公爵家の晩餐で沈黙していた親族、噂を楽しんだ貴婦人、ロアン母娘の失脚を面白がっていた者。彼らの視線が一瞬、私の指輪やドレスへ向くのを感じる。
以前なら、その視線に合わせて背筋を伸ばし、傷ついていないふりをしただろう。
今は違う。
傷ついていたことを隠すためではなく、傷があったから作れるものを示すために立つ。
壇上へ上がると、会場が静かになった。
私は原稿を広げたが、最初の数行だけ読んで、紙から目を上げた。
「冬の部屋という名は、ある一つの部屋から始まりました」
声は、思ったより落ち着いていた。
「南向きで、暖炉があり、病弱な子どもが冬を越すために必要だった部屋です。その部屋を明け渡せと言われた時、私は初めて、部屋は贅沢品ではなく命を支える環境なのだと、声に出して言う必要があると知りました」
客席のどこかで、誰かが息を呑んだ。
「基金は、哀れみのために作ったものではありません。寒い朝に咳き込む子、薬代を取り上げられる人、看病する家族が孤立する家。そうした場所へ、薪、医師、記録、監査、そして呼んでいい合図を届けるためのものです」
私は会場を見た。
「寄付は歓迎します。ただし、支援を受ける人の生活へ口を出す権利はつきません。善意を名乗って誰かの部屋を奪うことを、私たちは許しません」
静けさのあと、拍手が起こった。
大きな喝采ではない。最初は少し戸惑い、やがて確かな音になった。
壇上を降りると、王都の貴婦人が近づいてきた。以前、公爵家の茶会で私に「後妻の忍耐は美徳ですわ」と言った女性だ。
「辺境伯夫人」
「エリシアで結構です」
彼女は一瞬、目を泳がせた。
「以前、失礼なことを申しました」
「覚えています」
私は微笑んだ。
許したふりはしない。忘れたふりもしない。ただ、今ここで責め続けるために時間を使う必要もない。
「寄付のお申し出でしたら、会計官が受け付けています。規約をご確認ください」
彼女は赤くなり、深く頭を下げた。
その後、寄付の申込書は予想以上に増えた。中には体面のためのものもあるだろう。けれど、規約と監査を通れば、体面の金も毛布や窓枠になる。
私はそれでいいと思った。
夜会の終わり、リーナは休憩室から少しだけ会場を見た。今日は白の札で、参加は短時間だけだ。
「エリシア様、たくさん拍手された?」
「少しね」
「怖くなかった?」
「怖かったわ。でも、隣にカイ様がいたし、あなたの鈴の印もあったから」
リーナは得意げに笑った。
「鈴の印、強いですね」
「ええ。とても」
帰り道、カイが私の肩に外套を掛けた。
「今日の挨拶は、記録に残す」
「監査用ですか」
「後世用だ」
私は思わず彼を見た。
彼は真面目な顔をしていた。
「あなたが言ったことは、制度の始まりの言葉だ。残す価値がある」
夜会の灯りが背後で小さくなっていく。
私は外套の前を合わせ、静かに頷いた。
王都で沈黙した夜の私に、もしこの光景を見せられたなら、信じなかったかもしれない。
けれど今の私は知っている。
奪われそうになった部屋から始まるものもある。
寒い夜に握った手が、やがて誰かの春を支える制度になることもあるのだ。




