第50話 初めての庭仕事
相談室が開いてから、リーナの世界は少しずつ広がった。
広がったと言っても、急に遠くへ行けるようになったわけではない。朝の体温を測り、木札を選び、窓を開ける時間を決め、ミラ医師が頷いた日だけ外へ出る。そういう手順は変わらない。
けれど、手順があるからこそ、彼女は外へ出られる。
その日、リーナは緑の札を選んだ。
「庭へ行きたいです」
声はまだ慎重だったが、目ははっきりしていた。
私はミラ医師の確認を受け、膝掛けと外套を用意した。ネラは温かい飲み物を小瓶に入れ、カイは庭までの道を先に歩いて、濡れた石がないか確かめた。
「カイ様、道を監査しているみたい」
リーナが小さく言う。
「実際に監査している」
彼が真面目に答えるので、リーナは口元を押さえて笑った。
庭の土は、冬の間に固くなっていた。けれど日当たりの良い場所では、淡い緑の芽が出ている。ベルモンドの温室から分けてもらった苗を植えるため、庭師が小さな花壇を用意してくれていた。
リーナは膝を折ろうとして、すぐに私を見た。
「しゃがんでもいい?」
「短い時間だけね」
彼女は慎重にしゃがみ、手袋をした指で土に触れた。
「冷たい。でも、痛くない」
「春の土ね」
「お母様の温室の花、ここで育つかな」
「庭師が、育つ場所を選んでくれたわ」
リーナは苗を手に取り、用意された穴へそっと置いた。私は土を寄せるのを手伝い、カイは水差しを渡す。大人が三人がかりで小さな苗を植えるのは、少し大げさに見えたかもしれない。
けれど、私はそれでいいと思った。
小さな命を大切に扱うことを、大げさだと笑わない家でありたい。
リーナは水を少しずつ注いだ。
「お母様の花が、ノルデンに来ました」
「ええ」
「エリシア様も、来た」
「そうね」
「わたしも、来た」
その言葉に、私は頷いた。
来た、という言い方が胸に残る。私たちは逃げたのだと思っていた。公爵家を出て、雪の街道を進み、保護を受け、裁定を勝ち取った。
けれど、逃げただけではない。
ここへ来たのだ。
自分の足で、自分の呼吸が続く場所へ。
リーナは花壇の横に小さな札を立てた。文字は彼女が書いたものだ。
マリアンヌの白花。リーナと、今の家族で育てる。
カイがその札を見て、少しだけ黙った。
「今の家族、でいいのか」
「はい」
リーナは迷わず答えた。
「昔のお母様も、今のお母様も、カイ様も、ネラも、ミラ先生も。みんな、わたしの中で席があります」
ネラが庭の端で泣きそうな顔をした。ミラ医師は咳払いをして、記録板に何かを書き込んでいる。カイは真面目な顔のまま、けれど視線だけ少し柔らかくなった。
「席が多い庭だな」
「増やしてもいいんでしょう?」
「もちろんだ」
リーナは満足そうに頷いた。
長く外にいるのはよくない。ミラ医師の合図で、私たちは部屋へ戻ることにした。
リーナは花壇を振り返り、少しだけ手を振った。
「また来ます」
その声は、咳でかすれていなかった。
部屋へ戻ったあと、彼女は青の札に替え、寝台で休んだ。疲れてはいるが、顔色は穏やかだ。
できたこと帳には、ゆっくりと一行が書かれた。
リーナ、春の土に花を植えた。
その下に、もう一行。
逃げただけじゃなくて、来た。
私はその文字を見て、胸の奥で静かに答えた。
そうよ、リーナ。
私たちはここへ来た。
冬の部屋を奪われるためではなく、自分たちの春を育てるために。




