第49話 南向きの春の部屋
冬の部屋基金の相談室が開いたのは、婚礼から一か月後のことだった。
ノルデン城の南棟にある古い客室は、すっかり姿を変えていた。壁紙は淡い花柄に張り替えられ、窓の隙間は丁寧に塞がれ、暖炉の前には低い椅子が置かれている。記録棚には鍵がかかり、机の上には申請書と、子どもでも使える色札が並んでいる。
扉の横には、小さな札が掛けられた。
冬の部屋基金 相談室
その下に、リーナが考えた鈴の印が刻まれている。
最初の日、相談者は三組だけだった。
多くはない。けれど、私には十分だった。始まりは、いつも小さい。冬の部屋を守ることも、最初は一つの暖炉に薪を足すことから始まった。
午前の相談を終えると、リーナがネラに付き添われて部屋へ来た。
今日は黄色の札。短い散歩と、相談室の見学が許可されている。
「ここが、エリシア様の手の部屋」
「みんなの手の部屋よ」
リーナは部屋をゆっくり見回した。
窓辺の椅子。暖炉。鍵付きの棚。呼び鈴。膝掛け。机の上の木札。
「冬の部屋みたい。でも、少し違う」
「どこが?」
「ここは、帰る場所じゃなくて、行ってもいい場所」
私はその言葉を心の中で繰り返した。
帰る場所と、行ってもいい場所。
どちらも必要だ。リーナには、安心して眠れる冬の部屋がある。そして誰かには、困った時に扉を叩ける部屋が必要なのだ。
午後、カイ辺境伯がやって来た。手には監査表の束を持っている。
「初日の記録を確認する」
「もうですか」
「初日ほど、記録が乱れる」
彼はそう言いながら、窓辺の椅子に座った。
リーナが隣の椅子を指さす。
「カイ様の席、そこです」
「相談室にも席があるのか」
「あります。エリシア様の隣」
カイ辺境伯は私を見た。
「座っていいか」
「はい」
彼が隣に座ると、リーナは満足そうに頷いた。
私は机の上に、今日の相談記録を広げた。
一組目は、冬に弱い幼い兄弟。二組目は、病後の妻を看る農夫。三組目は、親族に薬代を取り上げられていた少女。どの話も簡単ではない。支援だけで解決するものばかりではない。
それでも、記録を取り、医師へ繋ぎ、必要なら監査役を派遣する。
部屋は、魔法ではない。
けれど、部屋があることで、誰かは話し始められる。鈴があることで、誰かは呼んでいいと知る。帳簿があることで、誰かの苦しさは気のせいではないと残る。
私はそれを、身をもって知っている。
夕方になると、相談室の窓から春の光が差し込んだ。
冬の間、白く硬かった庭には、淡い緑が広がり始めている。リーナは窓辺に立ち、ゆっくり息を吸った。
「今日は、外の匂いが痛くない」
「少しずつ慣れてきたのね」
「うん」
彼女はできたこと帳を開いた。
最初の頃より、ページはずいぶん増えた。雪の街道で震えていた手は、今は少し力を持って文字を書いている。
リーナ、南向きの春の部屋を見た。
その下に、彼女はもう一行を足した。
ここには、鈴を鳴らしていい人が来る。
私はその字を見て、胸が静かに満たされるのを感じた。
あの日、晩餐室で夫に冬の部屋を明け渡せと言われた時、私は泣きつかなかった。診断書と薬代台帳と鍵を持ち、リーナの手を取って公爵家を出た。
あの時の私は、ただ守りたかった。
妻の座を返し、母役の座を降り、名前も行き先も冷たい雪の中で揺れていた。
けれど今、私の手には新しい鍵がある。隣にはカイがいて、窓辺にはリーナがいる。私を奥様と呼ぶ人もいるが、それだけではない。基金の代表として、母として、妻として、そしてエリシアとして、私は自分の足でこの部屋に立っている。
役が先にあるのではない。
選んだ手があり、重ねた日々があり、そのあとに呼び名がついてくる。
カイが、相談室の呼び鈴を軽く指で触れた。
「音を確認しておくか」
「今ですか?」
「初日の設備点検だ」
リーナが期待した目で見ている。
私は笑って頷いた。
小さな鈴の音が、南向きの部屋に響いた。
すぐに廊下からネラの声がした。
「お呼びでしょうか」
リーナがぱっと笑った。
「聞こえた!」
カイは真面目な顔で記録表に書き込んだ。
呼び鈴、正常。応答、速やか。
私はその文字を見て、声を出して笑った。
窓の外で、春の風が庭を通り過ぎる。
冬の部屋は、もう奪われる場所ではない。
寒さに閉じ込められた人が、春へ向かうための扉になった。
リーナが私の手を取る。カイがその隣に立つ。
南向きの部屋に、あたたかな光が満ちていた。




