第47話 妻の座ではなく隣の席
春の最初の雨が降った日、ノルデン城の食堂に新しい席札が置かれた。
城の行事用ではない。いつもの夕食の席に、木製の小さな札が三つ並んでいる。リーナの席、私の席、カイ辺境伯の席。それだけなら珍しくないが、私の席札には、以前のような「客人」や「保護対象者」の文字がなかった。
ただ、エリシアと刻まれていた。
リーナはそれを見て、満足そうに頷いた。
「名前だけの方がいい」
「なぜ?」
「役がないから」
私は苦笑した。
彼女の言葉は時々、私よりも先に本質へ届く。
夕食は穏やかだった。リーナは白い札の日で、部屋から出る許可は短時間だけだったが、食堂で一緒にスープを飲むことができた。ネラが椅子の背に膝掛けを置き、ミラ医師は食後の薬を確認する。
食後、リーナは眠そうな顔になった。
「今日はここまでね」
「うん。青にします」
彼女は木札を青に替え、ネラに付き添われて部屋へ戻った。
食堂に残った私に、カイ辺境伯が言った。
「少し歩くか」
「はい」
雨は弱く、外へ出るには冷たい。私たちは屋根のある回廊を歩いた。石の床に雨音が反響し、庭の土が春の匂いを含んでいる。
回廊の先には、冬の間閉ざされていた小さな礼拝堂があった。扉は開いており、中には灯りが一つだけともっている。
私は足を止めた。
「ここは」
「辺境伯家の古い礼拝堂だ。婚礼にも使う」
婚礼という言葉に、胸が静かに鳴った。
カイ辺境伯は私を急かさず、扉の前で止まった。
「以前、私は契約で求婚した。次に言う時は、契約ではなく言葉で言うと決めていた」
雨音が、二人の沈黙を包んだ。
「エリシア。私と結婚してほしい」
彼は真っ直ぐに私を見た。
「あなたを妻の座に置くためではない。私の隣の席を、あなたに選んでほしい。リーナの後見は、あなたの意思を尊重する。基金は、あなたの仕事として守る。あなたの名と財産と判断を、婚姻で奪わない」
言葉は以前より少し多かった。
それでも、彼らしい求婚だった。
「私は、あなたが朝に窓を開ける時間を考える姿も、裁定の紙を読む時に眉を寄せる姿も、リーナにお粥を食べさせる時の声も、好きだ。あなたが私の隣を選ばなくても、その尊敬は変わらない。だが、選んでくれるなら、私は生涯、あなたの鈴が聞こえる場所にいる」
目の奥が熱くなった。
私は、以前ならここで怖くなったかもしれない。
妻という言葉が、再び私を狭い場所へ連れ戻すのではないかと。誰かの母役、誰かの家の道具、誰かの体面を保つための椅子に戻されるのではないかと。
けれど、目の前の人は席と言った。
座と言わず、席と言った。
座は与えられるもののように聞こえる。高い場所に置かれ、動くなと言われるもののように。
席は、選んで座り、疲れたら立ち、隣の人と同じ机を見る場所だ。
「私も、カイ様の隣の席に座りたいです」
声は震えたが、迷いはなかった。
「ただし、条件があります」
「聞く」
「リーナに、私たちの結婚があの子を置き去りにするものではないと、きちんと説明してください」
「当然だ」
「基金を、婚姻後も私の仕事として続けます」
「必要なら辺境伯家の正式事業として支援する」
「それから」
私は少しだけ笑った。
「怖い人と会う時は、二人きりにならない約束を、婚姻後も有効にしてください」
「終身条項にする」
真面目な返事に、私は涙をこぼしながら笑ってしまった。
カイ辺境伯は、そこで初めて小さな箱を出した。
指輪だった。
派手な宝石ではない。銀の輪に、内側だけ小さな鈴の模様が刻まれている。外からは見えない。けれど、身につける人には分かる。
「遅くなった」
「いいえ。鍵の後でよかったです」
私は左手を差し出した。
指輪が指を通る。
それは、誰かの所有を示す重さではなかった。
隣の席を選んだしるしだった。
礼拝堂の入口で、雨が静かに降っている。
冬の終わりに降る雨は冷たい。けれど、土の下では春が動き始めている。
私もまた、役ではない名前で、新しい季節へ進もうとしていた。




