第45話 鈴が鳴った夜のあと
リーナの発作から三日間、ノルデン城は静かな緊張の中にあった。
誰も大声を出さない。扉はゆっくり閉められ、廊下の燭台は早めに灯され、厨房では香りの強い料理を避けた。城全体が、リーナの呼吸に合わせて少し歩幅を小さくしているようだった。
回復は早くなかったが、確かだった。
熱が下がり、咳の間隔が広がり、薄い粥を口にできるようになった。ミラ医師は記録を取りながら、春先の管理表を作り直した。窓を開ける時間、衣の厚さ、外へ出る条件、疲れが出た時の合図。項目は細かいが、責めるようなものではない。
リーナは寝台の上で、その管理表を見ていた。
「わたし、面倒な子?」
私は布を畳む手を止めた。
「いいえ」
「でも、窓の時間まで決める」
「それは、あなたを閉じ込めるためではなく、外へ出るためよ」
リーナは分からないという顔をした。
私は窓辺に置かれた鉢植えを指した。ベルモンドの温室から分けてもらった、小さな白い花だ。
「この花も、いきなり外へ出したら弱ってしまうの。けれど、少しずつ風に慣らせば、春の庭へ出られる。管理表は、あなたを部屋に置いておくための紙ではないわ。外へ出る日を増やすための紙よ」
リーナは鉢植えを見つめた。
「じゃあ、窓の時間は、外の練習?」
「そう」
「お薬も?」
「外の練習をする体を守るもの」
彼女は少し安心したように頷いた。
その日の午後、カイ辺境伯が見舞いに来た。手には薄い木箱を持っている。
「リーナに渡すものがある」
「また帳簿?」
リーナが寝台の上で眉を寄せると、彼は真剣に答えた。
「帳簿ではない。表だ」
「似てます」
私は笑ってしまった。
木箱の中には、色の違う小さな札が入っていた。青は休む。白は部屋で過ごす。黄色は短い散歩。緑は庭。赤は鈴を鳴らす。
「体調を言葉にするのが難しい時、この札を使うといい」
カイ辺境伯は説明した。
「話したくない時も、札を出せば伝わる。赤を出したら、理由を聞く前に誰かが来る」
「赤は、怒られない?」
「怒らない」
「黄色を出したのに、あとで疲れたら?」
「青に変えればいい」
「途中で変えてもいいの?」
「体調は、途中で変わる」
リーナは木札を手に取り、何度も色を見比べた。
「わたし、青を出したら、弱虫?」
「違う」
カイ辺境伯の返事は早かった。
「青を出せる人間は、自分の体を守れる人間だ」
リーナはその言葉を、ゆっくり飲み込んだ。
私は横で見ていて、少しだけ泣きそうになった。
アルヴェルト公爵家では、リーナはいつも我慢を求められていた。咳を隠すこと、薬を疑わないこと、父親に会いたいと言わないこと、寒い部屋でも文句を言わないこと。弱くないところを見せるために、弱い場所を隠していた。
ここでは、青い札を出していい。
それは小さなことに見えるが、リーナの人生にとって、とても大きな練習だった。
夕方、彼女は白い札を枕元に置いた。
「今日は、お部屋」
「承知しました」
ネラが丁寧に礼をする。
リーナはくすぐったそうに笑った。
「明日は黄色かもしれない」
「明日のリーナ様に聞きましょう」
その夜、私はカイ辺境伯と廊下で並んだ。
「木札を作ってくださって、ありがとうございます」
「弟に作れなかったものだ」
彼は窓の外を見た。
「子どもは、大人に合わせようとする。痛いと言わなければ手間をかけないと思う。怖いと言わなければ置いていかれないと思う。だから、言葉以外の合図が必要な時がある」
「カイ様は、弟君のことをずっと考えているのですね」
「考えない日はない。だが、最近は、悔いだけではなくなった」
彼は私を見る。
「リーナが鈴を鳴らす。あなたが基金を作る。ミーナの窓が直る。そういうものを見ていると、過去の穴に、今の手を伸ばしている気がする」
私は彼の手に触れた。
指先が、ほんの少し冷たい。
「一人で伸ばさなくていいです」
「そうだな」
彼は手を握り返した。
リーナの部屋から、小さな鈴の音は聞こえない。
今夜は静かに眠れている。
その静けさもまた、誰かが手順を作り、誰かが来ると約束した結果なのだと思った。




