第44話 春先の発作
雪解けの季節は、リーナにとって油断できない時期だった。
冬の寒さが緩むと、人は少し気を抜く。窓を開けたくなり、薄い衣を出し、春が来たのだからもう大丈夫だと思う。けれど、ミラ医師は最初から言っていた。
「春先の湿り気と寒暖差は、冬より厄介なことがあります」
その言葉通り、ある夜、リーナの咳が急に強くなった。
夕食までは落ち着いていた。柔らかい鶏肉を少し食べ、温室記録を読み、寝る前にはできたこと帳に、ミーナの窓が直ったと書いた。いつもと同じ夜に見えた。
けれど深夜、鈴が鳴った。
小さな音だった。
私は眠りの浅いところから一気に起き上がり、外套を羽織る前に廊下へ出た。向かいの部屋の扉も同時に開き、カイ辺境伯が現れた。
「リーナです」
「分かっている」
二人で走らない。廊下で転べば、助ける手が減る。そうミラ医師に何度も言われていたので、早足で進んだ。
部屋に入ると、ネラがすでにリーナの背を支えていた。
リーナは布団の中で体を丸め、喉の奥から苦しそうな音を漏らしている。唇の色が薄い。額には汗がにじんでいた。
「ミラ先生を」
「呼びました!」
ネラの声は震えていたが、手順は乱れていない。湯を沸かし、予備の薬を机へ出し、窓を閉じ、暖炉の火を調整している。
私はリーナの手を握った。
「リーナ、ここにいます」
返事はできない。
その代わり、彼女の指が私の手を弱く握り返した。
ミラ医師が到着するまでの時間は、実際には短かったはずだ。けれど、私には長く感じられた。咳の一つ一つが胸を削り、呼吸の隙間が恐ろしくなる。
カイ辺境伯は部屋の入口で邪魔にならない位置に立ち、必要なものを運んだ。水。清潔な布。追加の薪。医師が指示した時だけ動き、指示がない時は黙って見守る。
それが、どれほど心強いことか。
ミラ医師はリーナの呼吸を確認し、薬を飲ませ、湿らせた布を使って喉を楽にした。窓の隙間から入った冷気と、夕方の疲れが重なったらしい。
「今夜は交代で見守ります。眠れなくても、横になる時間を作ってください」
私は頷いたが、リーナの手を離せなかった。
しばらくして咳が弱まり、リーナは半分眠ったような目で私を見た。
「鈴、鳴らせた」
「鳴らせました」
「来てくれた」
「もちろん」
リーナの目尻に涙がにじんだ。
「前は、鳴らしても、聞こえないかもって思ってた」
「今は聞こえます」
「カイ様も?」
入口にいたカイ辺境伯が、静かに近づいた。
「聞こえた」
「眠ってた?」
「眠っていた」
「ごめんなさい」
「謝る必要はない。鈴は、鳴らすために置いてある」
リーナは少しだけ笑った。
「じゃあ、鈴のお仕事した」
「そうだ。立派に」
その夜、私はリーナの寝台の横で、何度も浅い眠りに落ちた。
目を覚ますたび、部屋には誰かがいた。ネラが湯を替え、ミラ医師が呼吸を確かめ、カイ辺境伯が暖炉の薪を足している。誰か一人が頑張り続ける部屋ではない。役割が静かに交代し、リーナの呼吸を支えていた。
明け方、リーナの熱は少し下がった。
窓の外が灰色に明るくなり始めると、私はようやく深く息を吐いた。
カイ辺境伯が隣に立つ。
「怖かったか」
「はい」
「私もだ」
意外な言葉だった。
彼の横顔はいつも通り落ち着いている。けれど、指先には疲れが出ていた。夜通し薪を足し、医師の指示を聞き、私が崩れないように見ていてくれた手だ。
「カイ様も怖いのですね」
「怖い。だから手順を作る」
私はその言葉を聞き、目を閉じた。
怖くない人が強いのではない。
怖い時に、誰かを一人にしない仕組みを作る人が強いのだ。
朝、リーナが眠ったあと、できたこと帳の端に小さな字が増えていた。
リーナ、夜に鈴を鳴らして、みんなが来た。
震える字だった。
けれど、その一行は春先の湿った寒さより強かった。




