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義娘の冬の部屋を明け渡せと言われましたが、母役の座も妻の座もお断りして公爵家を出ます  作者: 花守りつ


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第43話 指輪ではなく鍵

求婚契約が覚書に変わってから、カイ辺境伯はしばらく何も言わなかった。


 何も言わないからといって、気持ちが冷めたわけではない。彼は約束通り、私を急がせなかった。朝の会議では基金の会計を確認し、昼にはリーナの食事表に目を通し、夜には一緒に温室の改修図を見た。


 ただ、ときどき視線が合う。

 その視線が以前より少しだけ柔らかいことに気づくたび、私は書類の端を揃え直した。

 ある夕方、カイ辺境伯は私を南棟の改修予定地へ案内した。


 ノルデン城にも南向きの古い客室がある。今まで使われていなかったが、冬の部屋基金の相談室として整える計画が進んでいた。病弱な子どもや付き添いの家族が、短時間でも温かい場所で話せるようにするためだ。


 扉の前で、彼は小さな鍵を差し出した。


「これは?」

「この部屋の鍵だ」

「基金の相談室の?」

「そうだ。管理責任者はあなたになる」


 鍵は銀ではなく、真鍮だった。飾りは少ないが、持ち手の部分に小さな鈴の模様が彫られている。

 私は指先でその模様をなぞった。


「指輪ではないのですね」


 言ってから、自分で顔が熱くなるのが分かった。

 カイ辺境伯は、少しだけ沈黙した。


「指輪は、まだ早いと思った」

「そうですね」

「だが、鍵なら今のあなたに必要だ」


 彼は扉を見た。


「アルヴェルト公爵家では、あなたは部屋の鍵を返した。妻の座も、母役の座も返した。だから、次に渡すものは、誰かの所有を示す印ではなく、あなたが開け閉めを決められる鍵がいいと思った」


 胸の奥で、何かがほどけた。

 私はあの日、冬の部屋の鍵を卓上へ置いた。リーナを守るために持っていた鍵を、夫の命令に従うためではなく、私自身の決別として返した。

 鍵を手放した私は、自由になった。

 けれど同時に、空っぽの手で雪の街道へ出た。

 今、その手に新しい鍵が置かれている。


「受け取ります」


 私は言った。


「この部屋を、誰かが息を整えられる場所にします」

「一人で背負う必要はない」

「はい。鍵は私が持ちます。でも、扉を開ける手は、何人もあっていい」


 扉を開けると、まだ家具のない部屋に夕方の光が差し込んでいた。

 窓からは、城下の屋根と遠い森が見える。床板は古いが、磨けば使えるだろう。暖炉は大きく、煙突の掃除が必要だ。壁紙は剥がれかけているが、リーナなら小さな花柄を選びそうだと思った。


「ここに椅子を置きましょう」

「何脚だ」

「多めに。付き添いの人が立ったまま話さなくていいように」

「帳簿棚は」

「鍵付きで。相談者の記録は外に出さない」

「呼び鈴は」

「必ず置きます」


 私たちは部屋の中を歩きながら、必要なものを挙げていった。

 その作業は、不思議なほど楽しかった。華やかな舞踏会の支度より、宝石を選ぶ時間より、この空っぽの部屋に毛布と椅子と記録棚を置く相談の方が、ずっと私らしいと思えた。

 夜、リーナに鍵を見せると、彼女は目を輝かせた。


「鈴の鍵!」

「相談室の鍵よ」

「エリシア様のお部屋?」

「私だけの部屋ではないわ。困っている人を迎える部屋」


 リーナは鍵をそっと撫でた。


「でも、エリシア様が開けるんでしょう?」

「そうね」

「じゃあ、エリシア様の手の部屋だ」


 手の部屋。

 不思議な言い方なのに、私はすぐに意味が分かった。

 役割ではなく、手で何をするか。守る。開ける。記録する。呼ばれたら行く。

 私が欲しかったものは、たぶん、そういう場所だった。

 カイ辺境伯はリーナの言葉を聞き、真面目に頷いた。


「では、手の部屋として設計に記録する」

「本当に?」

「通称としてなら問題ない」


 リーナが笑った。

 その笑い声が部屋に広がる。

 私は真鍮の鍵を手のひらで包み込んだ。

 指輪ではなく鍵。

 今の私には、それが何よりも嬉しかった。

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