第42話 契約書にない言葉
冬の部屋基金の会議が終わると、執務室には私とカイ辺境伯だけが残った。
机の上には、基金の規約案、支援対象者の一覧、会計官からの意見書が積まれている。紙の山は、以前なら私を不安にさせた。けれど今は、一枚ずつ読めば進むものだと分かっている。
カイ辺境伯は、最後の書類を閉じた。
「運用初月としては、問題は少ない」
「少なく見えるのは、会計官が優秀だからです」
「代表が現場を見ているからでもある」
私はペンを置いた。
「褒める時の声が、監査報告と同じです」
「褒め言葉の装飾は得意ではない」
「存じています」
小さな沈黙が落ちた。
外では雪解けの水が樋を伝い、細い音を立てている。冬が終わろうとしているのに、北境の空気はまだ冷たい。けれど、部屋の中の暖炉は穏やかに燃えていた。
カイ辺境伯は、引き出しから一枚の紙を取り出した。
以前、彼が示した求婚契約の草案だった。
「これを破棄する」
私は目を瞬いた。
「なぜですか」
「不十分だからだ」
「条件が?」
「条件ではなく、前提が」
彼は紙を私の前に置いた。
「私は、あなたが安心するなら契約で求婚すればいいと思っていた。財産の独立、後見への不干渉、リーナの療養環境の保証。必要な条項は入れた」
「はい。だから私は、読めました」
「だが、それだけでは、あなたに失礼だ」
その言葉に、胸が静かに跳ねた。
カイ辺境伯は、私を見る。
いつものように冷静で、逃げ道を塞がない目だった。けれど、逃げなくてもいいと思わせる強さがあった。
「エリシア」
彼が私の名を呼ぶ時、肩書きが消える。
「私はあなたを妻の役に置きたいのではない」
私は息を止めた。
「後見のために便利だからでも、辺境伯家の体面のためでもない。あなたが書類に向かう時の横顔も、リーナに毛布を掛け直す手も、怒るべき時に声を震わせながら立つ姿も、私は尊敬している」
言葉は多くなかった。
けれど、一つ一つが丁寧に置かれていく。
「私は、あなたの隣にいたい。あなたが私の隣にいてくれることを望んでいる」
暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。
私は視線を落とし、手元の紙を見た。
契約書には、愛という文字がない。けれど、今の言葉には、それがあった。飾られた告白ではない。社交界で聞く甘い口説き文句でもない。
私が一番信じられる形で、彼は気持ちを差し出してくれた。
「私も」
声が少し震えた。
「カイ様の隣にいると、呼吸が急かされません」
「それは、恋情としては地味な返答だな」
「私には、とても大切なことです」
「分かっている」
彼は小さく息を吐いた。
私は続けた。
「あなたが私を急がせないこと。リーナを条件にしないこと。怒りを、証拠と手順に変えること。そういうところを、私は信頼しています」
信頼しています、と言ってから、私はもう一つの言葉を探した。
妻だった頃、私は愛という言葉を、義務や体面と一緒に渡されていた。だから、その言葉は少し重い。けれど、重いからこそ、丁寧に持ちたい。
「好きです」
小さく言うと、カイ辺境伯の表情がわずかに変わった。
驚いたのだと気づくまでに、少し時間がかかった。
「今の言葉は、契約書に記録した方がいいでしょうか」
私がそう言うと、彼は真面目な顔で答えた。
「記録したいが、あなたが嫌ならしない」
「少しだけ、残してもいいです」
彼は新しい紙を取り出した。
そこには、契約条項ではなく、短い覚書が書かれた。
一つ。互いの意思を、役割より先に確認すること。
一つ。沈黙を返事として扱わないこと。
一つ。怖い相手と会う時は、二人きりにならないこと。
一つ。リーナの鈴が鳴ったら、どちらかが必ず行くこと。
最後に、彼は少しだけ迷ってから書いた。
一つ。好きという言葉を、便利な条件にしないこと。
私はそれを読んで、目元が熱くなった。
「変な覚書ですね」
「実用的だ」
「はい。とても」
破棄された契約書は、暖炉へ入れなかった。
それも記録として残すことにした。私が条件でしか安心できなかった時期を、恥ずかしいものとして捨てないために。
その横に、新しい覚書を重ねる。
契約書にない言葉は、ようやく私たちの暮らしに置かれた。




