第39話 ベルモンドの温室
春の気配がまだ遠い頃、私たちはベルモンド侯爵家を訪れた。
リーナの体調を考え、長旅にはしない。辺境伯家の寝台馬車で移動し、途中の宿では必ず暖かい部屋を確保する。ミラ医師が薬と食事を管理し、ネラは毛布の数を数え、カイ辺境伯は行程表に余白を増やした。
「余白が多すぎませんか」
私がそう言うと、彼は表情を変えずに答えた。
「予定は詰めると壊れる」
「誰の言葉ですか」
「弟の治療記録を後から読み返した時に、私が学んだ」
私は言葉を選んで、ただ頷いた。
ベルモンド家の屋敷は、王都から少し離れた丘にある。白い壁と青い屋根を持つ、柔らかな印象の屋敷だった。門をくぐると、エルヴィン侯爵が自ら出迎えた。
「よく来てくれた、リーナ」
彼は距離を詰めすぎないよう、数歩手前で止まった。
リーナは私の手を握ったまま、少しだけ頭を下げた。
「お招き、ありがとうございます」
「こちらこそ。無理はしなくていい。今日は、姉の温室を見てもらえれば十分だ」
姉。
マリアンヌ前公爵夫人のことだ。
温室は屋敷の南側にあった。硝子越しの光が柔らかく、湿りすぎないよう換気窓が開けられている。鉢植えの中には、北境では見ない薄紫の花が咲いていた。
リーナは入口で足を止めた。
「ここが、お母様の?」
「姉が娘時代によく過ごした場所だ。植物の名前を覚えるのが好きでね。花を育てるより、根の様子を見る方が好きだった」
エルヴィン侯爵は、古い木箱を開けた。
中には、小さな帳面が入っていた。表紙には、丸い文字で「温室記録」と書かれている。
リーナは私を見た。
「読んでもいい?」
「もちろん」
彼女は帳面を受け取り、ゆっくりページをめくった。
そこには、花が咲いた日、葉が黄色くなった日、水をやりすぎた失敗、寒さに弱い鉢を移した記録が残っていた。美しい詩ではない。けれど、細かな観察が詰まっている。
リーナは小さく息を吐いた。
「わたしの、できたこと帳みたい」
「そうだな。姉も、自分が見たものを書き留めるのが好きだった」
エルヴィン侯爵の声が、少し震えた。
「姉は君が生まれる前から、子どもができたら一緒に記録をつけたいと言っていた。花でも、天気でも、今日食べられたものでも、何でもいいと」
リーナは帳面を胸に抱いた。
泣くのではないかと思ったが、彼女は泣かなかった。ただ、温室の光を見上げた。
「お母様は、記録が好きだったのですね」
「とても」
「じゃあ、わたしが帳面を書くのは、お母様に似たのかな」
「きっとそうだ」
私は隣で、胸の奥が静かに痛むのを感じた。
リーナには、亡き母の記憶がほとんどない。けれど、記憶がないことと、繋がりがないことは違う。こうして手触りのあるものに触れた時、彼女の中にある空白は、少しだけ名前を持つ。
温室の奥に、小さな椅子が二つ並んでいた。
「姉と私が使っていた椅子だ。古いものだが、直しておいた」
エルヴィン侯爵はそう言ってから、私を見た。
「エリシア殿の椅子も用意した。姉の場所を奪うという意味ではない。リーナの今の家族として、隣に座ってほしい」
私はすぐには返事ができなかった。
前妻の場所を奪ったと言われ続けた。後妻なのだから控えろと、親族たちは何度も私に視線で告げた。私自身も、マリアンヌの影を傷つけないよう、リーナのそばにいる自分を小さくしていた。
けれど、椅子は一つではなかった。
亡き母の椅子。叔父の椅子。私の椅子。リーナが疲れた時に座る椅子。誰かが座るから、別の誰かが消えるわけではない。
「ありがとうございます」
私は椅子に触れた。
リーナが、私の袖を引いた。
「座って」
「いいの?」
「うん。お母様の帳面を読む時、エリシア様にもいてほしい」
私は椅子に腰を下ろした。
温室の光は、冬の部屋の光と似ていた。まぶしすぎず、逃げ場があり、息を急かさない。
リーナは温室記録を読みながら、ときどき自分のできたこと帳に何かを書き写した。
その日の一行は、こうだった。
リーナ、昔のお母様の部屋に、今のお母様と座った。
私はその字を見て、目元を押さえた。
リーナは不思議そうに首を傾げた。
「泣いてる?」
「少しだけ」
「悲しい?」
「違うわ。椅子が増えたから、安心したの」
リーナは考えてから、帳面の横に小さな椅子を三つ描いた。
それは、温室に残された記憶と、これから増えていく家族の印だった。




