第37話 白狼の外套
後見審理の翌朝、ノルデン城の中庭には薄い霧が降りていた。
北境の朝は、王都の冬よりも静かだ。音が冷気に包まれて、遠くの馬のいななきも、鍛冶場の槌の音も、少し丸く聞こえる。
私は窓辺に立ち、リーナが眠っていることを確かめてから、肩に外套を掛けた。裁定は下りた。けれど、裁定が下りたからといって、暮らしのすべてが整うわけではない。
療養費の移管。薬房との新しい契約。リーナ名義の財産を守るための管理帳。アルヴェルト公爵家へ残っている衣類や本の引き取り。やるべきことは、雪のように積もっている。
廊下へ出ると、カイ辺境伯が待っていた。
「早いですね」
「あなたもだ」
「眠れなかったわけではありません。考えることが多くて」
「それは、眠れなかったと言っていい」
彼はそう言いながら、腕に抱えていた厚手の外套を差し出した。白い毛皮の縁取りがあり、内側には淡い灰色の裏地が張られている。上等だが、見せびらかすための華やかさはない。
「北境の朝に、王都の外套では足りない」
「ありがとうございます。けれど、これは高価すぎます」
「貸与だ」
「貸与?」
「あなたが北境にいる間、健康を損ねないための備品として扱う。返却期限は定めない」
私は外套を受け取りながら、思わず笑ってしまった。
「カイ様らしい贈り方ですね」
「贈り物だと受け取りにくいだろう」
「はい」
「なら、貸与でいい」
その言葉は、私の気持ちを乱暴に押さない。
彼はいつもそうだ。助けると言う前に、条件を示す。欲しいと言う前に、私が逃げられる扉を確かめる。冷たい人だと噂されるのは、きっと、相手に踏み込まない距離を保つからだ。
けれど私は、その距離に救われている。
外套を羽織ると、肩から背中へ温かさが広がった。リーナの冬の部屋で感じた南向きの日差しとは違う。北の寒さに負けないよう、内側から守る温かさだった。
「似合う」
短い言葉が落ちた。
私は少しだけ視線を落とした。褒め言葉としては控えめで、社交界の紳士なら花の名前を三つほど並べるところだろう。けれど、カイ辺境伯が言うと、余分な飾りがない分だけ、逃げ場が少ない。
「ありがとうございます」
「顔が赤い」
「外套が暖かいからです」
「そうか」
彼はそれ以上、追及しなかった。
中庭では、近衛ではなく辺境伯家の兵が、子ども用の小さなそりを点検していた。リーナが体調の良い日に、雪の上へ出られるようにするためだ。転ぶ危険がないよう、背もたれと膝掛けが取り付けられている。
ネラがそれを見て、感心したように言った。
「お嬢様が外へ出られる日が来るなんて、アルヴェルトでは考えたこともありませんでした」
「無理はしないわ」
「はい。でも、考えられるだけでも嬉しいです」
そこへ、城門の方から騒がしい声が届いた。
門番に案内されて入ってきたのは、王都から来た新聞売りだった。北境の役所に届ける定期便のついでに、都の瓦版を運んでいるらしい。
見出しには、アルヴェルト公爵家の監査と、病弱な令嬢を巡る裁定のことが書かれていた。
実名は伏せられているが、分かる人には分かる。前妻の娘を療養不適格な環境に置いた疑い。後妻が私財で支えた記録。辺境伯による保護。王都の社交界は、こういう話を冬の暖炉よりよく燃やす。
ネラが不安そうに私を見た。
「奥様、また噂にされます」
「そうね」
私は見出しを一度だけ読み、畳んだ。
「でも今度の噂は、リーナが悪い子だったというものではないわ。あの子の咳を、ようやく誰かが見ているという噂です」
カイ辺境伯が小さく頷いた。
「必要なら訂正を出す。不要な憶測は、記録で潰す」
「また証拠ですね」
「証拠は、相手を黙らせるためだけにあるものではない。守られている人間が、自分を疑わずに済むためにも必要だ」
その言葉を聞いて、私は手にしていた瓦版を見下ろした。
私も、ずっと自分を疑っていた。
後妻なのだから、もっと我慢すべきだったのではないか。亡き前妻の子を守ると言いながら、家を壊しただけではないか。妻の座を捨てた私は、リーナから何かを奪ったのではないか。
けれど、記録がある。
薬代の帳簿。診断書。侍女たちの証言。リーナが自分で書いた、できたこと帳。
私は奪ったのではない。息をする場所へ連れてきた。
その事実を、外套の温かさのように、少しずつ身につけていくのだと思った。
部屋へ戻ると、リーナが目を覚ましていた。
「エリシア様、その外套、白狼みたい」
「怖い?」
「ううん。カイ様みたいで、ちょっと安心する」
カイ辺境伯が入口で咳払いをした。
「私は外套ではない」
「でも、あたたかいです」
リーナが真面目に言うので、私は笑いをこらえきれなかった。
カイ辺境伯は困ったように目を伏せたが、耳の端がわずかに赤い。
北境の朝は寒い。
けれど、この寒さの中でなら、私たちは自分の温かさを確かめられる。




