第36話 後見審理、選ぶ家族
ノルデン監察庁舎の審理室は、王都中央法廷より小さかった。
その小ささが、リーナには良かった。高すぎる天井も、遠すぎる判事席もない。窓の外には雪解けの庭が見え、部屋の隅には休憩用の寝椅子が置かれている。
リーナは革のケースに入れたできたこと帳を抱え、私の少し前の椅子に座った。
ヴァレリー・アルヴェルト卿は、いかにも古い貴族らしい男だった。銀の髭、重い指輪、家名を背負うことに慣れた声。
「リーナ嬢はアルヴェルト家の血を引く唯一の継嗣です。公爵家の不祥事は遺憾ですが、だからこそ分家が正しく導くべきです。元公爵夫人に情があるのは理解しますが、血筋と家の教育は別問題です」
血筋。
リーナの肩が少し強張る。
監察官が問う。
「ヴァレリー卿。リーナ嬢の冬咳について、どのような療養計画をお持ちですか」
「我が屋敷にも日当たりの良い部屋はあります。医師も手配できます」
「具体的な設備は」
「必要なら整えます」
「本人の意思は」
「子どもは情に流されます。家の将来は大人が判断すべきです」
リーナが、できたこと帳を強く抱いた。
私は立ち上がりそうになる自分を抑えた。
これは、リーナが自分で言う場だ。もちろん、必要なら助ける。けれど、最初の声を奪ってはいけない。
監察官がリーナに向き直った。
「リーナ嬢。話せますか」
リーナは頷いた。
「はい」
声は小さい。けれど、聞こえる。
「ヴァレリー卿の屋敷へ行きたいですか」
「行きたくありません」
「理由を言えますか」
リーナは少し黙った。
ヴァレリー卿が口を挟みかけ、監察官に止められる。
リーナは帳面を開いた。
「ここに、できたことが書いてあります」
彼女は、ページをめくる。
「ノルデンのお部屋で息がしやすいって言えた。怖い夢を見ても、ここを確認できた。お祭りに行けた。エリシア様をお母様って呼べた。カイ様は鈴を鳴らしてくれた。エルヴィン叔父様は、お母様のお話をしてくれた」
部屋は静かだった。
リーナは、帳面を胸に抱いた。
「アルヴェルトのお家にも、血はあるのかもしれません。でも、わたしの鈴が鳴っても、誰が来るか分かりません。だから、行きたくありません」
ヴァレリー卿の顔が赤くなった。
「子どもの感傷で、公爵家の将来を」
「感傷ではありません」
カイ辺境伯が、静かに言った。
「本人の安全認識です」
私はその言葉を聞き、胸の奥で頷いた。
リーナが抱えているのは、わがままではない。どこなら息ができるか、誰なら来てくれるかという、生きるための判断だ。
次に、ミラ医師が療養環境について証言した。
ノルデン城の部屋は現時点で最も適している。ベルモンド侯爵家との交流は精神面に良いが、長期滞在には湿度管理が必要。アルヴェルト分家は具体的設備が未確認で、リーナ本人の強い不安があるため、移動は悪化の危険が高い。
エルヴィン侯爵も証言した。
「ベルモンド家は血縁として支援します。しかし、姪の言葉を無視して家へ連れ帰るつもりはありません。姉マリアンヌが生きていれば、同じことを言ったでしょう」
ヴァレリー卿は不満を隠さなかったが、分家の申し立ては退けられた。
後見体制は維持。アルヴェルト分家は、リーナの財産管理に関する情報開示を受ける権利はあるが、身柄の移動や療養方針へ干渉する権限はない。将来、リーナが成年後に公爵家の継嗣としてどう関わるかは、本人の体調と意思に基づいて再検討される。
審理が終わると、リーナは深く息を吐いた。
「言えた」
「言えました」
私はリーナの隣に膝をついた。
リーナは帳面を開き、震える手で一行を書いた。
リーナ、血より鈴が鳴る場所を選んだ。
私はその文字を見て、胸が熱くなった。
ヴァレリー卿は廊下で私に言った。
「元夫人、あなたは公爵家の血を軽んじている」
「いいえ。血を理由に子どもの呼吸を軽んじることを、拒んでいるだけです」
彼は何か言い返そうとしたが、カイ辺境伯が私の後ろに立つと口を閉じた。
怖い人と会う時は、二人きりにならない。
約束は、まだ生きている。
その夜、ノルデン城では小さな祝食が用意された。リーナの食べられる柔らかいパンと、薄いスープ。大人たちには、北境の羊肉と温かい葡萄酒。
リーナは疲れていたが、パンを二口食べた。
「今日は花丸?」
ネラが聞くと、リーナは首を振った。
「花丸じゃなくて、鈴丸」
「鈴丸?」
「鈴が鳴る場所を選んだから」
その日から、できたこと帳には時々、小さな鈴の印が描かれるようになった。
それは、リーナが自分で選んだ家族の印だった。




