第35話 公爵家からの最後の異議
春を待つ祭りから三日後、公爵家から最後の異議申し立てが届いた。
差出人はジェラルドではない。アルヴェルト公爵家の分家当主、ヴァレリー・アルヴェルト卿。公爵家の血筋を守るべきだとして、リーナの後見を分家へ移すよう求める内容だった。
判決後も、こうした動きは予想されていた。
リーナは公爵家の継嗣だ。父親の権利が停止されたからといって、家そのものが黙っているとは限らない。むしろ、ジェラルドの失脚で分家が力を持とうとする可能性は高かった。
私は異議書を読み、深く息を吐いた。
「また、家の秩序ですね」
カイ辺境伯が頷く。
「分家は、リーナ嬢を公爵家の財産として見ている。療養環境については、ほとんど書かれていない」
「リーナには、どう伝えましょう」
「本人の後見に関わる。隠すべきではない。ただし、言葉を選ぶ」
私たちは、リーナの部屋へ行った。
リーナはできたこと帳に、祭りで会った女の子の名前を思い出しながら書いているところだった。私たちの顔を見て、すぐに何かを察した。
「悪いお手紙?」
「少し難しい手紙です」
私は椅子に座り、できるだけ分かりやすく説明した。
公爵家の分家が、リーナをアルヴェルトの家で育てるべきだと言っていること。今の部屋や私との生活が、また審理で確認されること。ただし、前の判決がなくなるわけではなく、リーナ本人の意思も必ず聞かれること。
リーナは鈴を握った。
「また、戻れって言われる?」
「言われるかもしれません。でも、決める人はあなたの体調と気持ちを聞きます」
「わたし、また言えるかな」
その声は小さかった。
私は手を伸ばし、リーナの手に触れた。
「言えない日があっても、記録があります。あなたがこれまで何を言って、何を選んだか、帳面に残っています」
リーナはできたこと帳を見た。
祭り。鈴。新しい部屋。お母様と呼んだ日。怖い夢から戻った日。
「帳面も、法廷に行く?」
「必要なら、写しを出します」
「本物は?」
「あなたのものです。持っていきたいなら持っていけます」
リーナは少し考えた。
「持っていく。言えなくなったら、帳面に言ってもらう」
その表現が、胸に響いた。
言葉を失った時、記録が代わりに立つ。
それは、私たちがずっとしてきたことだった。
異議審理は、ノルデン領の監察庁舎で行われることになった。王都ではなく北境で開かれるのは、リーナの体調を優先した結果だ。ヴァレリー卿は不満を表明したが、監察局は却下した。
審理の前日、カイ辺境伯はリーナに一つの箱を渡した。
中には、できたこと帳を入れる革のケースがあった。白狼紋は控えめで、角には丈夫な金具が付いている。
「帳面が傷まないように」
「カイ様の地味で丈夫な花?」
「そうだ」
リーナはケースを抱きしめた。
私はその横で、少し笑った。
カイ辺境伯は、私にも薄い紙束を渡した。
「分家の主張への反論案だ。確認してほしい」
そこには、リーナの療養環境、本人の意思、ベルモンド家とノルデン家の支援体制、エリシアの後見実績が整理されていた。最後に、一文だけ手書きで加えられている。
家名は子どもの部屋を暖めない。
私はその文を指でなぞった。
「強いですね」
「強すぎるなら削る」
「いえ、残しましょう」
その夜、私は眠る前に自分の帳面を開いた。
公爵家から最後の異議が来た。怖い。でも、今度は一人で受けていない。
書き終えた時、扉が軽く叩かれた。
カイ辺境伯だった。
「眠れそうか」
「たぶん」
「たぶんは記録上、不安定だ」
「では、少し話してください」
自分からそう言えたことに、私は驚いた。
彼も少し驚いたようだったが、部屋の外の椅子に腰を下ろした。扉を開けたまま、私も内側の椅子に座る。二人きりではあるが、扉は開いている。リーナとの約束は守られている。
カイ辺境伯は、北境の雪解けの話をした。
川が増水すること。橋を点検すること。春の最初の花は、雪の下から紫に咲くこと。
その話を聞いているうちに、私の呼吸は落ち着いた。
異議申し立ては怖い。
でも、怖い夜に誰かの声を聞きたいと言えるようになった。
それも、できたことに書いていい。




