第33話 お母様と呼ぶ日
リーナが私を「お母様」と呼んだのは、何でもない朝だった。
特別な儀式があったわけではない。熱が下がった記念日でも、判決の節目でもない。ノルデン城の冬の部屋で、朝の薬を飲み、少し顔をしかめ、蜂蜜湯を一口飲んだあとだった。
「お母様、この薬、昨日より苦い」
言った本人が、一番驚いた顔をした。
ネラは盆を落としそうになり、私は匙を持ったまま固まった。リーナの目が丸くなり、次に不安が浮かぶ。
「あ、違……エリシア様」
慌てて言い直そうとする声が、胸に刺さった。
私は匙を置き、リーナの前に座った。
「リーナ」
「ごめんなさい」
「謝らなくていい」
リーナは毛布を握った。
「母役は、やめたって言ったから。お母様って呼んだら、だめ?」
その問いに、私はすぐ答えられなかった。
母役。
公爵家で押し付けられた言葉。実の母でもないのにと責められ、母なら我慢しろと利用された座。私はそれを返した。返したからこそ、ここまで来られた。
でも、リーナの「お母様」は、ジェラルドや親族が押し付けた役とは違う。
あの子が、自分の舌で選んだ呼び方だ。
「母役は、いりません」
私はゆっくり言った。
リーナの顔が少し曇る。
「でも、あなたが私をお母様と呼びたいなら、その声には応えたいです」
リーナの瞳が揺れた。
「マリアンヌお母様を、忘れることにならない?」
「なりません。マリアンヌ様は、あなたのお母様です。そのことは変わりません」
「二人いてもいい?」
「あなたの心がそう望むなら」
リーナは泣きそうな顔になった。
「お母様」
今度は、はっきり言った。
私は彼女を抱きしめた。
細い肩が震える。私の胸も震えている。ネラが横で泣き、今度は湯気のせいにもできない。
温かい部屋は、本当に人を泣かせる。
その日の「できたこと帳」には、リーナが自分で書いた。
エリシア様を、お母様と呼んだ。マリアンヌお母様も忘れない。
文字は少し震えていた。
私はそのページを見て、何度も読み返した。
昼過ぎ、カイ辺境伯が部屋へ来た。リーナは少し照れながら、できたこと帳を見せる。
彼は読み、静かに頷いた。
「良い記録だ」
「カイ様は、どう思う?」
「呼び名は、呼ぶ人と呼ばれる人が大切にするものだ。外の人間が勝手に決めるものではない」
リーナは安心したように笑った。
「じゃあ、カイ様の呼び名も決めていい?」
カイ辺境伯は、わずかに警戒した。
「内容による」
「鈴係長」
「それはすでに広まっている」
「じゃあ、カイ様でいい」
リーナは真剣に言った。
「カイ様は、カイ様」
彼は少しだけ表情を緩めた。
「それで十分だ」
夕方、私は一人で礼拝室へ行った。
ノルデン城の礼拝室は小さく、白い石の壁に冬の聖人の像がある。私はマリアンヌ様のために、細い蝋燭を灯した。
会ったことのない女性。
リーナを産み、冬の部屋を残し、若くして亡くなった人。私はその人の代わりにはなれない。なってはいけない。
「あなたを消すために、あの子の母と呼ばれるわけではありません」
小さく呟いた。
「リーナが息をしやすいように、そばにいます」
答えはない。
けれど、蝋燭の火が静かに揺れた。
礼拝室を出ると、カイ辺境伯が廊下で待っていた。
「リーナ嬢は眠った」
「ありがとうございます」
「あなたは大丈夫か」
「分かりません。嬉しくて、怖いです」
「なら、できたこと帳に書ける」
私は笑った。
「私の欄にも?」
「必要なら、大人用を作る」
彼らしい提案だった。
その夜、私は自分の帳面を一冊用意した。
表紙には何も書かなかった。ただ、最初のページに一行だけ記す。
リーナに、お母様と呼ばれた。役ではなく、声として受け取った。
その文字を見て、胸の奥が温かくなった。
母役の座は返した。
でも、選ばれた呼び声は、両手で受け取る。
その違いを、私はようやく分かり始めていた。




