第32話 辺境伯の求婚契約
カイ辺境伯が求婚したのは、雪の降る午後だった。
ただし、最初に差し出されたのは花束ではなく、契約書だった。
私は執務室で療養信託監査表の修正をしていた。リーナは昼寝中で、ネラは隣室にいる。レティシアは城下へ菓子を買いに行き、オルガは冬用の備蓄確認。静かな時間だった。
その静けさの中、カイ辺境伯が机の向こうに座り、厚みのある紙を差し出した。
「確認してほしい」
「制度改正案ですか」
「違う。婚姻契約案だ」
私は筆を落とした。
インクが紙の端に丸い染みを作る。
「婚姻……契約」
「私とあなたの」
彼はいつもと同じ顔で言った。
いつもと同じ顔だからこそ、私はしばらく言葉が出なかった。
「閣下」
「カイでいい」
「では、カイ様。なぜ、契約書から始めたのですか」
彼は少し考えた。
「あなたは前の婚姻で、契約にない役を押し付けられた。だから、次に婚姻を考えるなら、先に条件を明文化すべきだと思った」
理屈は分かる。
分かるが、胸は理屈どおりには動かない。
私は契約書を手に取った。
財産の管理。リーナの後見への不干渉と支援。クロフォード姓の使用継続可否。私の仕事の継続。ノルデン家の責任。別居が必要な場合の条件。婚姻解消時の安全確保。
どれも、驚くほど丁寧だった。
丁寧すぎて、私は少し怖くなった。
「これは、私を守るための契約ですね」
「そうだ」
「では、カイ様は?」
「私?」
「あなたは、この婚姻で何を望むのですか」
カイ辺境伯は黙った。
その沈黙で、私は彼が一番大事な条項を書いていないことに気づいた。
「私を守りたい、リーナを支えたい。それは分かります。でも、あなた自身が私とどうなりたいのかが、この紙にはありません」
彼の目が、わずかに揺れた。
「あなたに、不安を与えたくなかった」
「不安です」
私は正直に言った。
「前の婚姻で、私は妻の座を返しました。やっと、自分の名前で立てるようになったところです。そこへ、どれほど丁寧な契約でも、また妻になる話を出されると怖い」
カイ辺境伯は、契約書を見た。
「すまない。急ぎすぎた」
「謝らないでください。嬉しくないわけではありません」
言ってから、自分の顔が熱くなるのを感じた。
彼が私を見る。
「嬉しいのか」
「そこを確認しないでください」
「重要な記録だ」
「記録しなくていいです」
少し笑ってしまった。
笑うと、緊張がほどけた。
「カイ様。私に必要なのは、婚姻契約書の前に、あなたの言葉です。なぜ、私と結婚したいのですか」
彼は、長く黙った。
窓の外で雪が降っている。執務室の暖炉が小さく鳴る。私は待った。リーナが言葉を探した時と同じように。
やがて、カイ辺境伯は言った。
「あなたが、怖いと言いながら前へ進むところを尊敬している。リーナ嬢を守る時、相手を憎むだけで終わらず、制度を変えようとするところを信頼している。あなたが部屋にいると、書類だけでは足りないものを思い出す」
彼は一度、言葉を止めた。
「それから、あなたが笑うと、私は安心する」
胸が、静かに熱くなった。
契約書のどの条項より、短くて不器用な言葉だった。けれど、その不器用さが、私にはよく分かった。
「私は」
私も言葉を探した。
「あなたが、冷たい人ではなく、冷たくならなければ守れなかった人だと知りました。鈴を鳴らす手も、椅子を増やす指示も、書類の端に呼吸を数えろと書くことも、私は好きです」
カイ辺境伯の耳が、少し赤くなった。
レティシアが言っていた、耳が硬くなるというのはこれかもしれない。
「ただ、今すぐ妻になるとは答えられません。私は、妻という言葉をもう一度温め直す時間が必要です」
「待つ」
彼は即答した。
「契約書は?」
「保管する。急がない」
「破棄しないのですか」
「改善の余地がある」
私は笑った。
「では、赤入れをします。最初の修正は、求婚は契約書ではなく言葉から始めること」
「了解した」
その夜、リーナは私の顔を見て首を傾げた。
「エリシア様、できたことあった?」
「ありました」
「何?」
私は少し迷った。
でも、隠すことではない。
「怖いけれど嬉しい話を、怖いと言えました」
リーナは真剣に頷き、できたこと帳に書いた。
エリシア様、怖いけれどうれしい話をした。
その下に、リーナは勝手に花丸を二つ付けた。
私はそれを見て、また笑った。
妻の座は、まだ受け取らない。
けれど、誰かの言葉を受け取ることは、少しずつできるようになっていた。




