表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
義娘の冬の部屋を明け渡せと言われましたが、母役の座も妻の座もお断りして公爵家を出ます  作者: 花守りつ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

31/53

第31話 新しい生活の帳面

ノルデン城での生活は、帳面を一冊増やすところから始まった。


 表紙には、リーナが自分で名前を書いた。少し傾いた文字で「リーナのできたこと帳」とある。その下に、私が小さく日付を書いた。オルガが紐を付け、ネラが栞を縫い、レティシアが花の絵を描き足した。


 カイ辺境伯は、何も描かなかった。

 代わりに、帳面の裏表紙へ細い革の補強を付けた。


「長く使うなら、角が傷む」

「カイ様の花は?」


 リーナが聞くと、彼は少し考えた。


「革の補強が私の花だ」

「地味」

「丈夫だ」


 リーナは笑い、できたこと帳の最初のページに書いた。

 カイ様、地味で丈夫な花をつけた。

 カイ辺境伯は、その記録を見てしばらく黙っていたが、訂正しなかった。

 新しい生活は、特別な出来事ばかりではない。

 朝、体温を測る。薬を飲む。食べられた量を書く。少し廊下を歩く。疲れたら座る。午後に絵を描く。夕方、窓辺で雪を見る。夜、眠る前に呼び鈴を一度鳴らし、誰かが来ることを確認する。


 その繰り返しが、リーナの体を少しずつ安心させていった。

 公爵家では、日常は我慢の積み重ねだった。

 ノルデン城では、日常が回復の練習になった。

 もちろん、すべてが穏やかではない。

 リーナは時々、急に黙り込む。廊下で男の低い声がすると肩を跳ねさせる。夜、夢を見て「お部屋を取らないで」と泣くこともある。

 そんな時、私は急いで慰めすぎないようにした。


 ミラ医師に教えられた通り、まず今いる場所を確認する。


「ここはノルデン城です。あなたの部屋です。窓辺に膝掛け、枕元に鈴、扉の外にネラがいます」


 リーナは、涙目で部屋を見回す。


「冬の部屋じゃない?」

「違います。新しい部屋です」

「お父様は?」

「ここにはいません。会う時は、あなたが会いたいと言った時だけです」


 リーナは呼び鈴を握り、少しずつ呼吸を整える。

 その後、できたこと帳に書く。

 夜に怖い夢を見た。でも、ここを確認できた。

 怖い夢を見ないことではなく、見た後に戻ってこられることを、できたことにした。

 私自身にも、新しい帳面が必要だった。


 カイ辺境伯は制度改正案のため、療養信託の監査表を作るよう私に頼んだ。薬代、部屋の維持費、支払い責任者、第三者確認、本人の体調記録。公爵家での経験を、別の家で同じことが起きない仕組みに変える。


「これは、私がやっていい仕事でしょうか」


 私は最初に聞いた。


「あなたが一番、穴を知っている」

「穴に落ちたからですか」

「落ちて、そこから出たからだ」


 その言葉で、私は筆を取った。

 監査表を作る作業は地味だった。けれど、地味な仕事が嫌ではない。リーナの薬代を守るには、派手な演説より、支払い欄の小さな確認印が役に立つことを知っている。

 夕方になると、リーナが私の机へ来る。


「エリシア様のできたことは?」

「今日は、療養信託の監査表を三枚作りました」

「花丸?」

「まだ下書きなので、三角くらいです」

「じゃあ、明日は花丸になる?」

「頑張ります」


 リーナは真剣に頷き、自分の帳面に書いた。

 エリシア様、三角の書類を作った。

 私は笑った。

 こうして毎日、少しずつ言葉が増えていく。


 ノルデン城の使用人たちも、リーナの帳面に興味津々だった。料理人は「鶏スープを四口飲めた」と書かれると厨房で喜び、廊下係は「椅子で休めた」と書かれると次の日から椅子の位置を少し変えた。


 リーナの記録が、城を動かしている。

 以前は、記録は誰かを責めるために必要だと思っていた。

 今は、記録が誰かを助けるためにも使えると知った。

 ある夜、カイ辺境伯ができたこと帳を見て言った。


「リーナ嬢の記録は、制度改正案より説得力がある」

「花丸があるからでしょうか」

「それもある」


 彼が真面目に言うので、私は笑った。


「では、制度改正案にも花丸を付けますか」

「王立監察局が混乱する」


 その反応が少し面白くて、私は翌日の下書きの端に小さな丸を描いた。

 新しい生活は、こういう小さないたずらを許す余白も持っていた。

 私はまだ、元公爵夫人としての噂から完全に自由ではない。リーナも、病から完全に回復したわけではない。ジェラルドの刑事審理も、カミラたちの処分も、制度改正も続いている。

 それでも、朝に帳面を開き、夜にできたことを書く生活は、確かに前へ進んでいた。


 役ではなく、記録ではなく、生活そのものが私たちを少しずつ温めている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ