第31話 新しい生活の帳面
ノルデン城での生活は、帳面を一冊増やすところから始まった。
表紙には、リーナが自分で名前を書いた。少し傾いた文字で「リーナのできたこと帳」とある。その下に、私が小さく日付を書いた。オルガが紐を付け、ネラが栞を縫い、レティシアが花の絵を描き足した。
カイ辺境伯は、何も描かなかった。
代わりに、帳面の裏表紙へ細い革の補強を付けた。
「長く使うなら、角が傷む」
「カイ様の花は?」
リーナが聞くと、彼は少し考えた。
「革の補強が私の花だ」
「地味」
「丈夫だ」
リーナは笑い、できたこと帳の最初のページに書いた。
カイ様、地味で丈夫な花をつけた。
カイ辺境伯は、その記録を見てしばらく黙っていたが、訂正しなかった。
新しい生活は、特別な出来事ばかりではない。
朝、体温を測る。薬を飲む。食べられた量を書く。少し廊下を歩く。疲れたら座る。午後に絵を描く。夕方、窓辺で雪を見る。夜、眠る前に呼び鈴を一度鳴らし、誰かが来ることを確認する。
その繰り返しが、リーナの体を少しずつ安心させていった。
公爵家では、日常は我慢の積み重ねだった。
ノルデン城では、日常が回復の練習になった。
もちろん、すべてが穏やかではない。
リーナは時々、急に黙り込む。廊下で男の低い声がすると肩を跳ねさせる。夜、夢を見て「お部屋を取らないで」と泣くこともある。
そんな時、私は急いで慰めすぎないようにした。
ミラ医師に教えられた通り、まず今いる場所を確認する。
「ここはノルデン城です。あなたの部屋です。窓辺に膝掛け、枕元に鈴、扉の外にネラがいます」
リーナは、涙目で部屋を見回す。
「冬の部屋じゃない?」
「違います。新しい部屋です」
「お父様は?」
「ここにはいません。会う時は、あなたが会いたいと言った時だけです」
リーナは呼び鈴を握り、少しずつ呼吸を整える。
その後、できたこと帳に書く。
夜に怖い夢を見た。でも、ここを確認できた。
怖い夢を見ないことではなく、見た後に戻ってこられることを、できたことにした。
私自身にも、新しい帳面が必要だった。
カイ辺境伯は制度改正案のため、療養信託の監査表を作るよう私に頼んだ。薬代、部屋の維持費、支払い責任者、第三者確認、本人の体調記録。公爵家での経験を、別の家で同じことが起きない仕組みに変える。
「これは、私がやっていい仕事でしょうか」
私は最初に聞いた。
「あなたが一番、穴を知っている」
「穴に落ちたからですか」
「落ちて、そこから出たからだ」
その言葉で、私は筆を取った。
監査表を作る作業は地味だった。けれど、地味な仕事が嫌ではない。リーナの薬代を守るには、派手な演説より、支払い欄の小さな確認印が役に立つことを知っている。
夕方になると、リーナが私の机へ来る。
「エリシア様のできたことは?」
「今日は、療養信託の監査表を三枚作りました」
「花丸?」
「まだ下書きなので、三角くらいです」
「じゃあ、明日は花丸になる?」
「頑張ります」
リーナは真剣に頷き、自分の帳面に書いた。
エリシア様、三角の書類を作った。
私は笑った。
こうして毎日、少しずつ言葉が増えていく。
ノルデン城の使用人たちも、リーナの帳面に興味津々だった。料理人は「鶏スープを四口飲めた」と書かれると厨房で喜び、廊下係は「椅子で休めた」と書かれると次の日から椅子の位置を少し変えた。
リーナの記録が、城を動かしている。
以前は、記録は誰かを責めるために必要だと思っていた。
今は、記録が誰かを助けるためにも使えると知った。
ある夜、カイ辺境伯ができたこと帳を見て言った。
「リーナ嬢の記録は、制度改正案より説得力がある」
「花丸があるからでしょうか」
「それもある」
彼が真面目に言うので、私は笑った。
「では、制度改正案にも花丸を付けますか」
「王立監察局が混乱する」
その反応が少し面白くて、私は翌日の下書きの端に小さな丸を描いた。
新しい生活は、こういう小さないたずらを許す余白も持っていた。
私はまだ、元公爵夫人としての噂から完全に自由ではない。リーナも、病から完全に回復したわけではない。ジェラルドの刑事審理も、カミラたちの処分も、制度改正も続いている。
それでも、朝に帳面を開き、夜にできたことを書く生活は、確かに前へ進んでいた。
役ではなく、記録ではなく、生活そのものが私たちを少しずつ温めている。




