第29話 北境へ向かう
北境へ向かう日は、よく晴れていた。
王都の雪はほとんど溶け、石畳の隙間にだけ白い名残が残っている。春にはまだ遠いが、空の色は少しだけ明るくなっていた。リーナは寝台馬車の窓から外を見て、真剣に眉を寄せている。
「北境は、ここより寒い?」
「寒いでしょうね」
「でも、カイ様のお城には温かい部屋がある?」
「あります。昨日、設計図を見せてもらいました」
リーナは私の言葉に安心したようだが、すぐに別の心配を見つけた。
「鈴は持って行ける?」
「もちろん」
「赤い糸も?」
「外しません」
呼び鈴は、リーナの小さな鞄の一番上に入っている。体温表、薬、絵、マリアンヌ様の膝掛け、クロフォード家から届いた乾燥林檎。荷物は増えたが、逃げるための荷物ではない。新しい場所へ暮らしを運ぶための荷物だ。
出発前、エルヴィン侯爵が見送りに来た。
「春の半ばには、ベルモンドの薬草園へ招待するよ。体調が許せば、マリアンヌ姉上が好きだった温室も見せたい」
「蜂はいる?」
リーナが心配そうに聞く。
エルヴィンは笑った。
「いるけれど、窓越しに見ることもできる」
「じゃあ、行きたい」
彼は深く頷いた。
ベルモンド家と離れることは、リーナにとってもう別れではない。会いに行ける場所が増えたのだ。
クロフォード家からは兄が来た。彼は私を見るなり、厚い靴下の包みを押し付けた。
「北境は足から冷える。あと、辺境伯」
兄はカイ辺境伯を睨んだ。
「妹を泣かせたら、法的に問題のない範囲で殴る」
「法的に問題のない殴打は難しい」
「努力する」
カイ辺境伯は真面目に頷いた。
「では、泣かせない努力をする」
兄は一瞬詰まり、それから私を見る。
「……変な男だが、悪い男ではなさそうだ」
「兄様、聞こえています」
「聞かせている」
リーナがくすくす笑った。
こういう雑談が、私は少し苦手だった。公爵家では、会話はいつも誰かの機嫌を探るものだったからだ。けれど、兄の乱暴な心配も、カイ辺境伯の真面目な返答も、リーナの笑い声も、馬車に積む毛布のように温かい。
馬車が動き出すと、王都の城壁がゆっくり遠ざかった。
私は窓の外を見た。
公爵家の屋根は見えない。見ようとも思わなかった。あの家で過ごした三年は消えないが、今は前を向いている。前を向くことは過去を捨てることではなく、過去に背中を支配させないことなのだと思う。
旅は三日かかる予定だった。
一日目は、王都北の宿場まで。二日目は山道の手前。三日目にノルデン領へ入る。カイ辺境伯は道中の医師と休憩所をすべて手配していた。どの宿にも、リーナ用の温石、乾いた寝具、刺激の少ない食事が用意されている。
「すごい」
リーナが宿場の部屋を見て言った。
「どこでも鈴がある」
各宿に、小さな呼び鈴が置かれていた。白狼紋はないが、音は澄んでいる。
カイ辺境伯は当然のように言った。
「道中で苦しくなった時、毎回自分の鈴を探すのは負担だ。各部屋に置いたほうが早い」
「カイ様、鈴係長?」
リーナが聞く。
彼は少し考えた。
「係長とは何だ」
「鈴係の偉い人」
「なら、宿場全体の鈴を管理する者に任命状が必要だ」
リーナは笑い、咳き込みかけて水を飲んだ。
私はその様子を見て、胸の奥が柔らかくなった。リーナが笑いすぎて咳をし、水を飲んでまた笑う。そんな当たり前の一連の動作が、少し前までは考えられなかった。
二日目の夕方、山道の宿で雪が降り始めた。
王都の雪より粒が細かく、空気がきりりと冷える。リーナは窓越しに外を見て、膝掛けを握った。
「怖い?」
「少し。でも、きれい」
私は頷いた。
「怖いものが、きれいに見えることもあります」
「公爵家の雪は、怖かった」
「今の雪は?」
「まだ分からない。でも、エリシア様と見てるから、大丈夫かも」
私はリーナの隣に座った。
カイ辺境伯は少し離れた机で、旅程表を確認している。ネラは乾燥林檎をミラ医師に許可された量だけ切り分けている。レティシアは次の宿の菓子について真剣に悩んでいる。
雪は同じでも、部屋にいる人が違う。
それだけで、世界の温度は変わる。
北境へ向かう道は、寒かった。
けれど、寒さの中で温かさを作る人たちと一緒にいる。
そのことが、リーナにとっても私にとっても、新しい旅の始まりだった。




