第27話 寵姫の退場
※公爵家側の視点を含みます。
カミラ・ロアンが公爵家を出る日、王都には冷たい雨が降っていた。
雪ではない。冬の終わりに近い、重く湿った雨だ。馬車の屋根を叩く音が、屋敷の玄関ホールまで響いている。
かつてカミラがここへ来る時、ジェラルドは自ら玄関へ迎えに出た。使用人たちは彼女の外套を受け取り、ロアン未亡人のために温かい茶を用意した。公爵夫人であるエリシアが廊下の奥にいても、誰も気まずそうにしなかった。
今日は、誰も見送らない。
ロアン未亡人は、宝飾品の返還目録を前にして泣き言を言っていた。
「これはジェラルド様からの贈り物よ。返す必要があるの?」
「療養費流用分から購入された可能性があるため、監察局が一時保全します」
監察局の職員は、淡々と答える。
カミラは椅子に座り、爪を掌に食い込ませていた。
彼女が失ったのは宝石だけではない。公爵家の未来の夫人という夢、社交界での立場、ジェラルドの寵愛、そして「可哀想な恋人」という物語だ。
物語は、法廷で変わってしまった。
病気の子どもの部屋を奪った女。
母親の膝を理由に療養室へ入り、薬代の流用に目をつぶった女。
その噂は、カミラが以前エリシアについて流した噂より速く広がっている。
「わたくしだけが悪いわけではないわ」
カミラは小さく言った。
「ジェラルド様が、エリシア様は大丈夫だと。リーナ様も、少し弱いだけだと。マルクスが、療養費は余っていると」
監察局の職員は、目録から顔を上げた。
「その発言は、追加記録として扱いますか」
カミラは慌てて口を閉じた。
記録。
今の公爵家では、その言葉が一番怖い。
ロアン未亡人は、最後まで冬の部屋の暖かさに文句を言っていた。だが、実際に部屋を出る時、彼女は扉の前で足を止めた。
南向きの窓から、雨の光が鈍く差し込んでいる。壊れた配管は応急処置され、床板の一部は剥がされたままだ。療養棚は戻されていない。子どもの本も、膝掛けも、体温表もない。
ただの空き部屋だった。
「こんな部屋のせいで」
未亡人は呟いた。
カミラは答えなかった。
部屋のせいではない。
それを口にするほど、彼女はまだ強くも正直でもなかった。
公爵家を出る馬車に乗る前、カミラは一度だけ振り返った。
ジェラルドは姿を見せなかった。監察処分中の彼は、面会も外出も制限されている。そもそも、今の彼にカミラを庇う余裕はない。
恋人として選ばれたと思っていた。
けれど、ジェラルドが選んだのは、責任を見ないで済む相手だったのかもしれない。
カミラは馬車の中で、初めて少しだけ泣いた。
その涙は、リーナへの後悔ではなかった。自分が失ったものへの涙だ。けれど、自分のために泣くことからしか始められない人間もいる。
同じ頃、監察局宿舎で私はその退去報告を受け取った。
カイ辺境伯が書面を机に置く。
「ロアン母娘は王都の親族宅へ移った。宝飾品は保全。社交上の処分は侯爵会議に回る」
「そうですか」
思ったほどの満足感はなかった。
ざまぁ、という言葉が物語なら、ここで私は笑うべきなのかもしれない。けれど現実には、リーナの咳が消えるわけではない。冬の部屋が元通りになるわけでもない。
ただ、一つの害が遠ざかった。
それだけで十分なのだと思う。
「物足りないか」
カイ辺境伯が聞いた。
「いいえ。少し静かです」
「処罰は、感情の穴を全部埋めるものではない」
「では、何で埋めるのですか」
「時間、生活、正しい薬、暖かい部屋。あと、本人が望めば菓子」
最後の一つで、私は笑った。
「リーナが聞いたら、花丸を付けます」
「菓子はミラ医師の許可制だ」
その日、リーナは退去報告を聞いて、しばらく黙っていた。
「カミラ様、もう冬の部屋にいない?」
「いません」
「お部屋、空っぽ?」
「今は、そうです」
リーナは絵の紙を見た。
「空っぽのお部屋は、かわいそう?」
「どうでしょう」
「わたし、戻りたくない。でも、お部屋が悪いわけじゃない」
私は頷いた。
「そうね。部屋は、使う人によって意味が変わります」
リーナは新しい紙を出し、空っぽの部屋を描いた。窓と、暖炉と、何もない床。
その隅に、小さな文字で「もう戻らない」と書く。
「これも、できたこと?」
「ええ」
私は体温表の下に書いた。
リーナ、冬の部屋に戻らないと決めた。
奪われた部屋を惜しむことと、そこへ戻らないことは両方あっていい。
寵姫が退場しても、物語は終わらない。
私たちは、空っぽになった場所ではなく、これから作る場所へ目を向け始めていた。




