第20話 眠る子のそばで
リーナの熱が下がるまで、三日かかった。
三日という時間は、書類の上では短い。けれど、寝台の脇で子どもの呼吸を聞きながら過ごす三日は、季節が一つ変わるほど長い。
初日は、咳のたびに体が跳ねた。ミラ医師が薬を調整し、ネラが布を替え、私は水を含ませた布で唇を湿らせた。リーナは時々目を開け、「鈴は?」と聞いた。私はそのたび、枕元の呼び鈴を鳴らして見せた。
ちりん。
音がすると、リーナは少し落ち着いた。
二日目、熱は高いままだが、呼吸の音が少し変わった。ミラ医師は「山は越えつつあります」と言ったが、私はその言葉にすがりすぎないようにした。期待しすぎると、次の咳で心が折れる。
カイ辺境伯は、法廷と監察局を往復しながら、夜には必ず部屋の前まで来た。
「入っても?」
彼は毎回聞く。
リーナが眠っている時は、私は頷いた。彼は部屋に入り、机に新しい書類を置き、リーナの呼吸を邪魔しない声量で報告する。
「マルクスが一部認めた。療養費の差額をロアン母娘の支出と公爵家の借財返済に回した。ジェラルドの署名がある支出も見つかった」
「ジェラルドは知っていたのですね」
「少なくとも、療養費が別用途に流れたことは知っていた可能性が高い」
私はリーナの額を拭いた。
怒りはある。けれど、リーナの熱い額に触れていると、怒りを大声にする気力がない。怒りは静かに、体の奥で固まっていく。
「エリシア」
カイ辺境伯が、私の名を呼んだ。
公爵夫人でも、クロフォード嬢でもなく、ただ名前で。
「あなたも二時間眠れ」
「眠れません」
「眠れなくても横になれ。これは提案ではなく、医師からの指示だ」
ミラ医師が戸口から顔を出した。
「その通りです。付き添いが倒れる前に交代します」
私は反論しかけたが、リーナが眠ったまま私の指を少し動かした。握る力は弱い。けれど、何かを伝えようとしているように思えた。
無理をしないで。
そう言われた気がした。
私は隣の簡易寝台に横になった。眠れないと思ったのに、目を閉じるとすぐ深く落ちた。
目が覚めた時、部屋は夕暮れだった。
リーナの寝台脇には、カイ辺境伯が座っていた。大きな手で呼び鈴を持ち、リーナが眠ったまま不安そうに指を動かすたび、ちりんと小さく鳴らしている。
その姿があまりに不器用で、胸が痛くなるほど優しかった。
「起こしてしまったか」
「いいえ」
私は起き上がった。
「閣下が鈴を?」
「彼女が探していた。鳴らすと呼吸が落ち着く」
「ありがとうございます」
カイ辺境伯は、少しだけ目を伏せた。
「弟が熱を出した時、私は何もできなかった。今も、できることは鈴を鳴らすくらいだ」
「それは、できます」
私は寝台の反対側に座った。
「できることに書きましょう。カイ様、鈴を鳴らした」
「私のことまで書くのか」
「リーナの記録です。あの子を安心させたことは、あの子の記録です」
彼は少し困った顔をした。
「では、字を小さく」
「花丸は?」
「それは管轄外だ」
私は笑った。
三日目の朝、リーナの熱はようやく下がり始めた。
彼女は目を開け、枕元の鈴と、椅子に座るカイ辺境伯を見た。
「カイ様、ずっといた?」
「ずっとではない。途中で書類も見た」
「鈴、鳴らした?」
「何度か」
「ありがとう」
カイ辺境伯は、ほんの少し遅れて頷いた。
「到着後の礼として受け取る」
リーナはかすかに笑った。
その笑い方で、私は山を越えたのだと分かった。完全に元気になったわけではない。まだ咳はある。体力も落ちた。けれど、リーナは戻ってきた。
午後、ミラ医師が短い散歩を許可した。
散歩といっても、廊下を数歩歩き、窓辺の椅子に座るだけだ。それでもリーナは真剣に外套を着た。ネラが支え、私は体温表を持ち、カイ辺境伯は呼び鈴を持っている。
「鈴、持って歩くの?」
「移動中の安全確認だ」
「カイ様、鈴係?」
「臨時だ」
リーナは嬉しそうに頷いた。
窓辺に座ると、王都の屋根に積もった雪が見えた。遠くに法廷の尖塔があり、その向こうに公爵家の方角がある。
リーナはしばらく外を見ていた。
「お父様、もう来ない?」
「今は来られません」
「ずっと?」
「それは、法廷が決めます。でも、あなたが怖い時は、怖いと言えます」
リーナは頷いた。
「怖い。でも、鈴がある」
カイ辺境伯が手の中の鈴を見た。
「鈴だけでは足りない。人もいる」
リーナが振り返る。
「誰?」
「エリシア、ネラ、ミラ医師、レティシア、私。他にも増やす」
リーナは目を丸くした。
「増えるの?」
「安全な部屋には、人手が要る」
それは、彼らしい慰めだった。
私は窓の外の雪を見た。
公爵家の冬の部屋は、リーナ一人を閉じ込める場所になっていた。新しい部屋は、きっと違う。呼び鈴を鳴らせば誰かが来る。苦しいと言えば記録される。怖い人とは二人きりにならない。
眠る子のそばで過ごした三日は、私にそれを教えた。
部屋は壁や窓だけでは作れない。
そこに来る人の手で、暖かさは保たれる。




