第19話 守るために捨てるもの
温室から戻ったあと、リーナの熱は上がった。
ミラ医師はすぐに処置をした。体を温めすぎず、冷やしすぎず、薬を正しく飲ませる。ネラは泣きそうな顔で布を替え、レティシアは廊下で祈るように手を組んでいた。
私は寝台の脇に座り、リーナの手を握った。
小さな手は、温かいというより熱い。呼吸は浅く、胸の奥で湿った音がする。温室の冷気を吸ったせいだ。せっかく少しずつ戻っていた体力が、また削られていく。
怒りで、視界が白くなりそうだった。
ジェラルドは父親だと言った。父親だから話す権利があると。けれど、その権利のためにリーナを夜の雪へ出した。眠り薬で警備を倒し、病気の子どもを古い温室へ連れて行った。
父親という言葉が、こんなにも空っぽに聞こえるとは思わなかった。
「エリシア様」
リーナが薄く目を開けた。
「ここ、どこ?」
「監察局宿舎です。戻ってきました」
「鈴、鳴った?」
「鳴りました。皆が聞きました」
「よかった」
その言葉で、私は喉が詰まった。
怖かった、ではなく、よかった。
助けを呼ぶことに成功したと、リーナは確認している。
「リーナ、もう話さなくていい」
「できたことに、書いて」
「書きます」
「鈴、鳴らした。糸、結んだ。エリシア様、来た」
私は涙を落とさないよう、瞬きをした。
「全部、書きます」
ミラ医師に促され、リーナは再び眠った。
廊下へ出ると、カイ辺境伯が待っていた。彼の外套には、まだ雪が溶けた跡が残っている。
「ジェラルドは監察局の拘束室にいる。マルクスの部下二名も捕らえた。眠り薬はベイン医師の診療所から出たものだ」
「ジェラルド本人は、薬のことを知っていたのですか」
「今のところ否定している。だが、使用人に金を渡した記録はある」
私は壁に手をついた。
「もう、父親としての面会権は停止できますね」
「できる。明日の緊急審理で申請する」
カイ辺境伯は、少し言葉を置いた。
「ただし、公爵家側はあなたの監督責任も問うかもしれない。リーナ嬢を守ると言いながら、誘拐を防げなかった、と」
私は目を閉じた。
そう来るだろうと思っていた。あの人たちは、自分の罪を薄めるためなら、私の痛みも使う。
「私は、完璧には守れませんでした」
「責めているのではない」
「分かっています。でも、事実です」
リーナを公爵家から連れ出した。別邸で守った。法廷で証言した。それでも、ジェラルドは隙を見つけた。
守るという言葉は、綺麗ではない。
守れなかった瞬間の痛みまで含んでいる。
「明日の緊急審理で、私は何を捨てればいいですか」
カイ辺境伯が眉を寄せた。
「捨てる?」
「公爵家は、私の評判、離縁条件、クロフォード家への圧力を出してくるでしょう。リーナの安全を最優先するなら、私は何を手放せばいいのか考えています」
カイ辺境伯はしばらく黙っていた。
「自己犠牲を前提にするな」
「でも」
「あなたがすべてを捨てれば、相手は『この女は子どものためなら何でも捨てる』と学ぶ。次にリーナ嬢を人質にする時、もっと高いものを要求する」
その言葉は厳しかった。
けれど、必要だった。
「守るために捨てるものは、相手に選ばせるな。自分で選べ」
私は息を吸った。
「では、捨てます。公爵家から良い妻だったと思われることを」
「それはもう捨てている」
「では、良い母役だったと思われることも」
「それも捨てた」
「……良い人だと思われることを」
言葉にすると、胸が少し痛んだ。
私はずっと、良い人でいようとしていた。怒らない。責めない。相手の事情を考える。波風を立てない。良い人でいれば、いつか大切にされると、どこかで思っていたのかもしれない。
でも、良い人でいるためにリーナを寒い部屋へ戻すなら、それは守ることではない。
「明日、私はジェラルドを父親として失格だと証言します」
カイ辺境伯の目が静かに私を見る。
「本気か」
「はい。あの子の父親を奪う女だと言われても、構いません。父親という言葉があの子を雪の温室へ連れて行くなら、その言葉からあの子を離します」
廊下のランプが、風もないのに揺れたように見えた。
カイ辺境伯は、ゆっくり頷いた。
「その証言は重い。だが、必要だ」
「閣下は、隣にいてくださいますか」
「契約上も、個人的にも」
個人的にも。
その言葉を、私はすぐには受け取れなかった。けれど、胸の奥に小さな暖かさが残った。
翌朝、緊急審理が開かれた。
私は証言台に立ち、温室での出来事を話した。呼び鈴の音。赤い糸。リーナの咳。ジェラルドの「父親だ」という言葉。
そして、最後に言った。
「リーナには、父親の名より安全な呼吸が必要です。ジェラルド・アルヴェルト公爵の単独後見と面会権の即時停止を求めます」
ジェラルドが叫んだ。
私は振り返らなかった。
良い人だと思われることを、私はその場で捨てた。
代わりに、リーナが眠る部屋へ戻る道を守った。
緊急裁定は、その日の夕方に出た。
ジェラルドの面会権停止。リーナの保護継続。公爵家関係者の接触禁止。ジェラルド本人の拘束継続。
控室へ戻ると、リーナは熱でぼんやりしながらも、私を見ると少し笑った。
「できたこと、書いた?」
「これから書きます」
私は体温表の下に、一行を足した。
リーナ、鈴を鳴らして助けを呼んだ。
その下に、もう一行。
エリシア、良い人でいることをやめた。
リーナがそれを見て、不思議そうに聞いた。
「悪い人になるの?」
「いいえ。あなたを守る人になります」
リーナは安心したように目を閉じた。
それで十分だった。




