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義娘の冬の部屋を明け渡せと言われましたが、母役の座も妻の座もお断りして公爵家を出ます  作者: 花守りつ


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第18話 雪明かりの誘拐

事件は、その夜に起きた。


 王都の監察局宿舎は、法廷に近い安全な建物だ。廊下には警備兵が立ち、リーナの部屋は中庭に面した二階にある。ミラ医師は隣室で仮眠を取り、ネラは寝台脇の椅子で体温表を書いていた。

 私はその時、カイ辺境伯の書斎代わりに使っている小部屋で、翌日の証言順を確認していた。

 突然、呼び鈴の音が鳴った。

 一度ではない。ちりん、ちりん、ちりん、と続けて三回。

 リーナの鈴だ。


 私は椅子を蹴るように立ち上がった。カイ辺境伯も同時に扉へ向かう。廊下に出ると、警備兵の一人が倒れていた。眠っているように見えるが、口元に薬草の匂いが残っている。


「眠り薬です」


 ミラ医師が隣室から飛び出してきた。

 リーナの部屋の扉が開いている。

 中には、倒れたネラと、乱れた毛布。窓が少し開いており、外から雪明かりが差し込んでいた。

 寝台の上に、リーナはいない。

 心臓が止まったようになった。

 けれど、次の瞬間、床に落ちた小さなものが目に入る。

 白狼の呼び鈴。柄に、赤い糸が巻かれていた。リーナの手芸箱に入っていた糸だ。

 その糸は、窓の外へ伸びている。


「リーナが結んだ」


 私は窓へ駆け寄った。

 外壁には細い糸が垂れている。中庭の雪の上に、小さな足跡と大人の靴跡。足跡は庭の東門へ向かっていた。

 カイ辺境伯が短く命じる。


「東門を封鎖。馬車を確認。眠り薬を使った者は薬房関係者の可能性がある。生かして捕らえろ」


 騎士たちが動く。

 私は窓辺に手を置いた。冷たい石の感触で、意識をつなぎ止める。

 怖い。叫びたい。けれど、リーナは呼び鈴を鳴らした。糸を結んだ。あの子は、ただ連れ去られたのではない。できることをした。

 なら、私もできることをしなければならない。


「東門の先は、旧馬車道です」


 私は言った。


「公爵家の馬車が使うなら、石橋を渡ります。でもリーナは寒さに弱い。遠くへ運ぶより、近くの暖かい場所へ隠すはずです」

「候補は」

「監察局の向かいに、古い温室があります。侯爵家の所有ですが、今は使われていません。雪の日でも中は少し暖かい。公爵家の茶会で、カミラが一度場所を話していました」


 カイ辺境伯は私を見た。


「行くぞ」

「私も」

「危険だ」

「リーナは私の声を聞けば落ち着きます」


 彼は一瞬だけ迷い、頷いた。


「私の後ろから離れるな」


 私たちは外套を掴み、雪の中へ出た。

 夜の王都は静かだった。雪明かりで、足跡が薄く光っている。騎士が先行し、東門の近くで見張りの男を捕らえた。男は公爵家の下働きで、金をもらって門を開けたと震えながら話した。

 石橋を渡らず、足跡は脇道へ逸れている。

 私の予想どおり、古い温室の方角だった。


 温室は、割れた硝子を板で塞いだ古い建物だ。中から薄い灯りが漏れている。扉の前には、マルクスの部下だった男が二人。騎士たちが音もなく近づき、取り押さえた。

 中から、リーナの咳が聞こえた。

 私は走り出しそうになり、カイ辺境伯に腕を掴まれた。


「待て。中に何人いるか分からない」

「リーナが」

「助けるために待つ」


 その言葉で、私は踏みとどまった。

 騎士が裏口を押さえ、カイ辺境伯が正面扉を開ける。

 温室の中には、古い鉢植えと壊れた棚が並んでいた。中央に、毛布に包まれたリーナが椅子に座らされている。そのそばに、ジェラルドがいた。

 彼は剣も持っていない。ただ、ひどく疲れた顔で、リーナの肩に手を置いていた。


「エリシア」


 彼の声は掠れていた。


「違う。私は、リーナと話したかっただけだ。監察局が会わせないから」


 リーナの目から涙が落ちている。

 私は前へ出た。


「リーナ」

「エリシア様……鈴、鳴らした」

「聞こえました。糸も見つけました。よくできました」


 リーナの顔がくしゃりと歪む。

 ジェラルドが慌てて言う。


「私は傷つけるつもりはなかった。父親だぞ。娘と話す権利くらい」

「眠り薬を使い、夜に連れ出すことは、権利ではありません」


 カイ辺境伯の声が温室に響く。

 ジェラルドは彼を睨んだ。


「お前が私の家を壊した」

「家を壊したのは、薬を薄め、部屋を奪い、子どもの声を聞かなかった者たちだ」


 ジェラルドは言い返せなかった。

 私はリーナへ近づいた。ジェラルドの手が肩にある。私はその手を見た。


「離してください」

「エリシア、私は」

「離して」


 低い声が出た。

 自分でも驚くほど冷たい声だった。

 ジェラルドの手が、ゆっくり離れる。

 私はリーナを抱きしめた。体は冷えているが、意識ははっきりしている。毛布の中で、彼女の指が私の外套を握った。


「怖い人と、二人きりにならなかった」

「ええ。鈴を鳴らしました」

「糸も」

「糸も」


 私はリーナを抱いたまま、泣かなかった。

 泣くのは、暖かい部屋に戻ってからだ。

 カイ辺境伯がジェラルドに告げた。


「アルヴェルト公爵。未成年者の保護命令違反、誘拐、警備兵への薬物使用の疑いで、身柄を預かる」


 ジェラルドは呆然とした。


「私は父親だ」


 その言葉は、もう誰も動かさなかった。

 雪明かりの中、リーナを抱いて温室を出る。

 外の空気は冷たい。けれど、騎士が用意した馬車の中には、温石が入っていた。

 リーナを寝かせると、彼女は泣きながら蜂蜜湯を飲んだ。

 私はその横で、呼び鈴に結ばれた赤い糸を外さずにおいた。

 これは、恐怖の記録ではない。

 助けを呼べた証拠だ。

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