第11話 白狼の妹と小さな約束
レティシア・ノルデンは、別邸に来るたび菓子を持ってきた。
最初は林檎の焼き菓子。次は蜂蜜を練り込んだ小さなパン。その次は、北境でよく食べるという乾いた果実の砂糖漬け。ただし、ミラ医師の許可が出るまでは、リーナの分は匂いを嗅ぐだけか、ほんの一口に限られる。
リーナはそれを不満に思うどころか、真剣に記録した。
「今日は、砂糖漬けを半分。咳は二回。甘い匂いは、いっぱい」
「匂いの量はどう記録するのですか」
私が聞くと、リーナは鉛筆を握って考えた。
「花丸三つ」
「採用しましょう」
レティシアはその横で、楽しそうに手を叩いた。
「リーナ様の記録は、兄の記録よりずっと可愛いですわ。兄は『咳二回、摂取半量』で終わりますもの」
「正確ではあります」
「正確だけでは、花丸は付きません」
カイ辺境伯がちょうど部屋に入ってきたところだった。
彼は妹の言葉を聞き、無表情で言った。
「花丸が必要な書類なら、付ける」
「兄様、そこはそういう意味ではありません」
リーナが布団の中で笑った。笑いすぎて咳が出そうになり、慌てて水を飲む。カイ辺境伯は近づきすぎず、けれど水差しが倒れない位置に手を置いた。
その距離感が、私は好きだった。
優しさを押し付けず、必要な時に手が届く。リーナは少しずつ、彼のいる部屋で緊張しなくなっていた。
午後、レティシアは私と二人で廊下を歩きながら、兄の昔話をした。
「兄は昔から、感情を言葉にするのが下手でした。弟のユリウスが亡くなってからは、もっと下手になりました」
「ユリウス様のことを、少し聞きました」
「母は、記録を残せなかったことをずっと悔やんでいました。兄はその後、王立学院で法律と会計ばかり学んで、気づけば監察官みたいな辺境伯になっていましたわ」
レティシアは窓の外を見た。
「でも、情がないわけではありません。情があるから、紙に逃がしているのだと思います。抱えていると、壊れるから」
その言葉は、すとんと胸に落ちた。
私も、リーナの体温表に情を逃がしていたのかもしれない。毎日、数字と短い言葉にしておかないと、心配で息ができなくなる。記録は冷たいものではなく、燃えすぎる心を入れる器でもある。
「エリシア様」
レティシアが、少し声を改めた。
「兄はあなたを利用しているわけではありません。もちろん、証拠として公爵家の不正を追います。ですが、あなたとリーナ様が傷つくことを軽く見てはいません」
「分かっています」
「本当に?」
「はい。軽く見る人は、呼び鈴を贈りません」
レティシアは目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
「兄が聞いたら、顔を赤くするかもしれません」
「閣下が?」
「いえ、やはり赤くはならないかも。耳が少し硬くなるくらいです」
耳が硬くなるとはどういう状態なのか、私は想像して笑った。
その日の夕方、公爵家から面会申請が届いた。
ジェラルドが、リーナと直接話したいという。監察局立ち会いなら可能だが、リーナ本人の体調と意思を確認する必要がある。
私は申請書を持って、リーナの部屋へ行った。
リーナは絵の続きを描いていた。新しい部屋の窓辺には、花丸三つの匂いが線で表現されている。
「お父様が、会いたいと言っています」
リーナの手が止まった。
「会わなきゃいけない?」
「いいえ。今は会わない、と言うこともできます」
「会わないって言ったら、お父様、怒る?」
「怒るかもしれません。でも、怒るかどうかで決めなくていい」
リーナは鉛筆を置いた。
「わたし、まだ会いたくない。お父様を見ると、胸がきゅってなる」
「分かりました。そう書きましょう」
私は申請書の返答欄に、リーナ本人の意思として「体調不安および強い緊張があるため、現時点で面会を希望しない」と書いた。
リーナが私の手元を覗き込む。
「胸がきゅってなる、は書かないの?」
「それも大事ですね」
私は別紙に、リーナの言葉としてそのまま書いた。
リーナ・アルヴェルト。父を見ると、胸がきゅっとなる。まだ会いたくない。
「これでいい?」
「うん」
リーナは小さく頷いた。
「エリシア様は、会いたい?」
「私は、公の場でなら会います。二人きりでは会いません」
「怖いから?」
「怖いのもあります。でも、それ以上に、二人きりだとまた『言った、言わない』になります。私たちには記録が必要です」
リーナは真剣な顔で聞いていた。
「じゃあ、約束しよう」
「約束?」
「怖い人と会う時は、二人きりにならない」
私は、その言葉をゆっくり受け止めた。
それは子どもの小さな約束であり、私自身がずっと破ってきた境界線だった。ジェラルドの執務室で、廊下の隅で、親族の前で。私は何度も一人で耐えようとした。
「約束します」
リーナの小指が出てきた。
私はその小指に自分の指を絡めた。
「怖い人と会う時は、二人きりにならない」
リーナが復唱した。
扉の外で、カイ辺境伯が足を止めていた。入ってくる用件があったのだろうが、約束が終わるまで待ってくれたらしい。
彼は部屋に入り、机へ書類を置いた。
「良い約束だ。契約書にしてもいい」
「兄様、すぐ契約書にしないでください」
レティシアが後ろから呆れた声を出す。
リーナは笑い、私も笑った。
けれど、その約束は本当に契約書にしてもいいくらい大切だと思った。
役を押し付ける人と、二人きりにならない。
それは、これから私が私を守るための最初の約束でもあった。




