第10話 茶会で売られた噂
リーナの保護が続くと決まった翌日、王都の茶会では私の噂が売られていた。
売る、という表現が大げさではないことを、私は自分の耳で知った。侯爵夫人主催の小さな茶会に招かれたのは、監察局への提出書類に必要な証人を探すためだった。公爵家で私がどのように扱われていたか、社交の場で何を言われていたか。噂も、出所が分かれば証拠になる。
カイ辺境伯は同行しなかった。
「私が行くと、皆が黙る」
「それは便利では」
「黙った噂は採れない」
代わりに、彼の妹であるレティシアが付き添った。二十歳を少し過ぎた明るい女性で、兄と同じ銀灰色の髪を華やかに結い上げている。目元は似ているが、表情は兄の三倍よく動いた。
「兄は失礼なほど無愛想ですが、悪気はありません。悪気がある時は、もっと書類を出します」
「それは見分け方になるのですか」
「なります。書類が三枚なら普通、五枚なら警戒、十枚なら相手を潰す気です」
私は思わず笑った。
茶会の会場は、王都南区の屋敷の温室だった。外は寒いが、中は花の香りで満ちている。貴婦人たちは薄い絹のドレスで、冬を知らないような顔をしていた。
私が入ると、会話が一拍遅れた。
誰かが「まあ」と言い、別の誰かが扇を上げる。好奇心、同情、軽蔑、恐れ。いろいろな視線が、私の指輪のない左手へ集まった。
侯爵夫人が席を勧める。
「大変でしたわね、エリシア様」
「お心遣い、ありがとうございます」
「けれど、殿方の面子というものもございますでしょう? お子様のためとはいえ、公の機関を入れるのは少し……」
その言い方は柔らかい。柔らかい言葉は、時に刃を隠すのが上手い。
「リーナの薬が薄められていた可能性があります」
私が言うと、茶器の音が止まった。
「面子より、薬の濃さを優先しました」
レティシアが横で紅茶を吹き出しかけた。侯爵夫人は笑顔を保ったが、目がわずかに固くなる。
「それは……確かに重大ですわね」
「はい。ですから、社交の場でリーナの病状や私の世話について、どのような噂が流れていたか教えていただきたいのです」
貴婦人たちは互いに視線を交わした。
一人が、扇の奥から言った。
「公爵様は、リーナ様は大げさに病人扱いされているとおっしゃっていましたわ」
「いつ頃ですか」
「秋の狩猟会です。エリシア様が欠席なさった時」
別の夫人が続けた。
「ロアン嬢が、エリシア様は先妻の子を盾にして公爵様の関心を引こうとしている、と。冗談めかしてですが」
「その場にいた方は」
「わたくしと、モーリス伯爵夫人と、あと……」
名前が出る。
レティシアがにこやかに相槌を打ちながら、驚くほど速く手帳へ書いた。兄妹だ、と私は思った。表情の量は違っても、記録への執念は同じだ。
やがて、若い伯爵夫人が小さく手を上げた。
「わたくし、言うべきか迷っていました」
「お願いします」
「先月、カミラ様が宝石商を呼んだ席で、冬の部屋の話をしていました。『あの部屋は母にちょうどいい。子どもは別の部屋でも寝られる』と。公爵様は笑って、エリシア様なら最後は折れるだろう、と」
胸の中で何かが静かに折れた。
折れたのは、期待ではない。期待はとっくにない。きっと、まだどこかに残っていた「彼は知らなかったのかもしれない」という甘い考えだ。
ジェラルドは知っていた。
リーナの部屋が必要だと知った上で、私が折れると思った。
「証言していただけますか」
私が聞くと、伯爵夫人は迷った。
「公爵家と争うのは怖いです」
「怖いなら、匿名の陳述でも構いません。監察官にだけ名前を伝える方法もあります」
レティシアが明るく補足した。
「兄は怖い顔をしていますが、証人保護には細かいです。怖い顔は証人を脅すためではなく、脅す人を減らすためです」
伯爵夫人は少し笑い、頷いた。
茶会の終わりに、侯爵夫人が私を呼び止めた。
「エリシア様。あなた、変わりましたわね」
「そうでしょうか」
「以前は、何を言われても静かに笑っていらした。今日のあなたは、笑っていても退きません」
私は自分の左手を見た。
「退く場所を、間違えていたのだと思います」
公爵家では、私はいつも一歩退いていた。妻として、後妻として、角が立たないように。けれど一歩退くたび、リーナの寝台は寒い場所へ押し出されていた。
「今は、リーナの後ろに退きます。あの子を押し出さないために」
侯爵夫人は何も言わなかった。
帰りの馬車で、レティシアは手帳を膝に置き、満足そうに息を吐いた。
「噂は汚いですが、出所が分かると役に立ちますね」
「売られていた噂を、買い戻した気分です」
「高くつきました?」
「紅茶一杯と、少しの勇気で済みました」
レティシアは笑った。
「兄に報告したら、きっと『良い費用対効果だ』と言います」
別邸に戻ると、リーナは絵を描きながら待っていた。今日は窓の外に、花を描いている。
「茶会、怖かった?」
「少し」
「でも、帰ってきた」
「ええ。帰ってきました」
リーナは満足そうに頷いた。
「じゃあ、できたことに書く?」
「書きましょう」
私は体温表の下の欄に、新しく一行を足した。
エリシア、茶会で噂を聞いた。戻ってきた。
リーナがそれを見て、くすぐったそうに笑う。
できたことは、子どもだけのものではない。
役を降りた大人にも、書いていいのだ。




