EP・38 天狐の神火
黄金の光が弾ける。 天狐の姿が揺らぎ、膨大な魔力が解き放たれる。
現れたのは、人の形。 だが、その存在感は人ならざるもの。神に近しき「霊格」が、周囲の大気を震わせる。
艶やかで、凛とした大人の女の風格。 そよ風に揺れる、金色の長髪。その間から覗く、愛らしい狐耳。 腰元では、神々しい光を帯びた四本の尾がゆらりと揺らめく。
千里眼と幻術を操る、高位の妖。
その手に握られているのは、一際鮮やかな緋色の扇子。 ただの装飾品ではない。万象を操る神通力の鍵――神器だ。
「……不愉快じゃな」
扇子で口元を隠し、冷徹に見下ろす。
「どこのカラスか知らぬが、その薄汚い羽……むしり取ってくれようぞ」
激昂する鴉天狗の首領。 大団扇が振るわれ、真空の刃が殺到する。 木々をなぎ倒す暴力的な嵐。
だが、天狐は動じない。 優雅に、舞うように、緋色の扇子を一閃させる。
空間が朱に染まる。 扇から放たれたのは、物理法則を無視して燃え盛る「狐火」。 真空の刃は炎に触れた瞬間に喰らい尽くされ、熱波となって四散する。
「なっ……!?」
驚愕に動きを止める首領。 それは戦闘ではない。一方的な蹂躙。 天狐は、空を歩くように中空へと進み出る。
「わらわの大事なお嬢を泣かせて――ただで済むと思うなかれ」
扇子が閉じられる。 それが合図。
周囲の空間が歪む。 首領の視界が、無数の天狐の幻影で埋め尽くされる。 上下左右、全てが敵。逃げ場のない幻術の檻。
混乱し、闇雲に暴風を撒き散らす首領。 だが、その攻撃は虚空を切り裂くだけ。
鈴を転がすような、涼やかで甲高い鳴き声。 放たれる奥義――『天狐の神火』。
聖なる灯が、辺り一帯を黄金色に染め上げる。
爆ぜる音。 炎が、無数の火花へと姿を変える。
奔流。 火花がうねり、巨大な渦となって鴉天狗の首領を飲み込む。 紅蓮の炎に包まれ、巨体が灰燼に帰す……かに思われた。
だが。
紅蓮の炎が、不自然な軌道を描いて収束していく。 行き先は、鴉天狗の腰に提げられた古びた瓢箪。
「まさか! 大天狗の『空瓢箪』かぇ!?」
天狐が驚愕に目を見開く。 あらゆる禍を飲み込むとされる、伝説の神器。 聖なる神火は、底なしの闇へと完全に呑み込まれた。
「……これは、ちょっといただけないねぇ」
呟く間もなく、瓢箪の口が天狐へ向けられる。
逆流。 吸い込まれたはずの焔が、倍加した勢いで吐き出される。
扇の一閃。 迫り来る炎の壁が、見えざる風圧によって薙ぎ払われ、火の粉となって霧散する。
「何故ゆぇ、下賤の輩がその様な高貴な神器を持っているのかは知らんが……」
天狐の瞳が、絶対零度の怒りに凍りつく。
「わらわにこのような侮辱、万死に値するぞぇ?」
だが、首領は止まらない。 漆黒の羽根が硬質化し、鋼の鎧のように全身を覆っていく。 噴き出すどす黒い殺気。 もはや天狗ではない。悪鬼羅刹の姿。
背負った大太刀が抜かれる。 身の丈を超える長大な刃。 憤怒に染まる双眸。
理性を捨てた獣の咆哮が、大気を震わせる。
突進。 獰猛な殺意の塊となり、天狐へ襲いかかる。 繰り出される重く、鋭い斬撃の嵐。 神速の連撃が、天狐を捉えんと迫る。
緋色の扇が舞う。 大太刀の豪撃を、紙一重で弾き返す。
「雑魚がどれほど粋がろうと、所詮は下等な矮小種よ!」
神速の回し蹴り。 巨体が吹き飛ぶが、鋼のように硬質化した羽根鎧が衝撃を殺す。 無傷。
「……しつこいねぇ」
着地し、忌々しげに呟く。
「あの『空瓢箪』さえなけりゃ、とっくに灰にしているものを」
間髪入れず、繰り返される怒濤の連撃。 学習能力のない、獣じみた猛攻。
「まったく、工夫の一つもありゃしない。力任せの単調な芸だこと」
侮蔑。 そして、慢心。
その一瞬の隙を、悪鬼は見逃さない。 剣戟の最中、強引な密着戦へと持ち込まれる。 揉み合いの中、至近距離で対峙する両者。
不意に、首領の顎門が不自然なほど大きく開かれる。 中から飛び出したのは、舌ではない。 赤黒く蠢く、醜悪な大百足。
「しまった――!」
回避不能。 ぎらつく多脚が躍りかかり、鋭利な牙が天狐の白く滑らかな肩口に深く突き立てられる。
注ぎ込まれる致死の猛毒。 神経を焼く熱と、凍てつく麻痺が同時に襲う。
「くっ……体に、力が……」
緋扇を取り落とし、その場に膝をつく。 赤黒い体節をうねらせ、迫りくる大百足。 大太刀を提げ、処刑人の歩調で距離を詰める首領。
視界が歪む。 猛毒が神経を食い荒らし、指一本動かせない。 意識が泥沼へと沈んでいく。
「……やらかしてしまったわね」
自嘲。
(お嬢、ごめんよ。久方ぶりにわらわを信じて呼んでくれたのに……助けてやれなくて)
首筋に、冷たい刃の感触。 処刑の時。
その刹那。
遠雷のような轟音。 闇を切り裂く一筋の閃光。 硬質な破砕音と共に、天狐の首を断つはずだった剛刀が、半ばから弾け飛ぶ。
愕然と見下ろす首領。 握りしめた柄の先には、無惨な断面のみ。
驚愕は瞬時に憤怒へと変わる。 ぎらつく双眸が周囲をナメるが、射手の姿はどこにもない。 気配すら掴めない遠方からの狙撃。
再び、乾いた砲声。 反応する間もない。 風切り音だけを残し、見えざる死神が首領の耳元を掠め飛ぶ。
着弾。
背後で鎌首をもたげていた大百足の頭部が、熟れた果実のように弾け飛んだ。 崩れ落ちる蟲の骸。
初めて、悪鬼の顔に焦燥の色が浮かぶ。 見えない敵への、根源的な恐怖。
「……何、かぇ?」
呆気にとられたような、天狐の呟きだけが響く。




