EP36・『月光に咲く、慈悲の花』
秘境への道。 険しい山岳地帯。立ち込める霧が視界を白く染める。
道なき道を行く一行。 先導するエリオットが、退屈しのぎに語りだす。
「この郷の成り立ちは、ちと特殊でしてね」 「大昔、この世界とは違う場所から『神隠し』ってやつに遭った連中――『異邦人』が開いた里らしいですぜ」
「……異邦人?」
呟く。 耳慣れない、しかしどこか懐かしい響き。 脳裏をかすめる既視感。記憶の底にある澱が、微かに揺らぐ。
「まあ、とにかく変わった場所だそうです」
エリオットが続ける。
「この世界の理とは、まるで別物」 「『東洋医学』やら『漢方』……マナではなく、自然の気を取り込む技術体系」
そこから生まれたのが、《命脈の法》。
「魔法とは根源が違う。だからこそ、バーレイグの旦那の『魔法無効』の身体にも干渉できる」 「ここなら、治せるはずです」
希望の光。 だが、懸念もある。
「なら良いんだが……彼らは素直に協力してくれるのか?」
閉鎖的な隠れ里。 外部の人間、ましてやお尋ね者を歓迎する道理はない。
「世の中、結局は金ですよ」
エリオットが不敵に笑う。
「相応の対価を積めば、交渉の余地はあるはずだ」
「……お金は、ありますの?」
横から、レネの鋭い声。 氷のような冷徹な響き。
「え?」
エリオットの笑顔が凍りつく。
「エリオットさん?」
重ねて問うレネ。 視線が、エリオットの腰元――財布のある場所へと突き刺さる。
動揺。 視線が泳ぐ情報屋。 嫌な予感が背筋を走る。 慌てて口を開く。
「おいおい、待てよ。黄金樹のレントから貰った『金の葉』があったはずだろ?」 「あれを換金して、旅費に充てたんじゃなかったのか?」
沈黙。 エリオットは答えず、気まずそうに遠くの山並みを見つめる。
「……おい」
「……いやぁ、その」
脂汗を流すエリオット。
「ウォーデンでの闇医者の手配、船のチャーター、それに最高級の鎮痛剤……」 「物入りだったんですよ、色々と……!」
つまり、文無し(スカンピン)。
「お前……どうするんだよ!」
絶句。 先立つものがなくては、交渉以前の問題。 忍びの郷へ辿り着いたところで、宿代も、飯代も、治療費もない。
重苦しい沈黙が流れる。
(……仕方ねぇな)
溜息。 ウォーデンでの手術。あの時、エリオットが金を惜しまず最高級の環境を用意してくれたおかげで、今こうして息をしている。 責めることはできない。
「……腹を括るしかねぇか」
頭を切り替える。 無い袖は振れない。ならば、現地調達だ。
「さて、金策をどうしたもんかね」
霧の向こう、見え始めた里の影を睨む。 治療の前に、まずは貧乏神との戦いが始まろうとしていた。
「……おや?」
不意に足を止めるエリオット。 視線の先、霧が晴れた街道の脇。 一人の老人が佇んでいる。
粗末な着物。背には古びた薬草籠。 だが、様子がおかしい。 里の方角ではない。 見上げているのは、険しい岩肌が剥き出しになった連峰――地元民さえ近づかぬ『魔の山』。
その顔は悲痛に歪み、手は祈るように強く握りしめられている。
「……放っておけば、今にも飛び込みそうな顔だ」
短く呟き、歩み寄る。 警戒心を与えないよう、あえて軽薄な笑みを浮かべて。
「もし。そこの御仁」
老人の肩が、びくりと跳ねる。
「こんな霧深い場所で、山登りって歳でもなさそうだ。……何か、お困りですかい?」
「……孫が、流行り病でして」
老人が、重い口を開く。 刻まれた皺の深さが、苦悩の時間を物語る。
「もう、そう長くは……」
消え入るような声。 余命幾ばくもない幼き命。 短く頷き、先を促す。 老人は、縋るような眼差しを向ける。
「孫を救うには、ある薬草華が必要なのです」 「『月光・曼珠沙華』と呼ばれる、幻の花が」
「……じゃが……」
優しく、しかし核心を突くように問う。 言葉を濁す老人。
「……危険な場所にしか、咲かんのです」
視線が、再びあの険しい連峰へと向く。
「あそこは今や、魔物の巣窟」 「空を自在に駆ける妖怪――『鴉天狗』たちが支配する、死の山」
地元の狩人さえも寄り付かない魔境。 老人の足では、辿り着くことすら叶わない。
「無理を承知で、お願いします」
震える手が、懐から小さな布袋を取り出す。 中身を見せる。 僅かな、しかし老人にとっては全財産であろう銀の貨幣。
「手持ちはこれだけですが……どうか、旅のお方」 「この依頼を、受けていただけないでしょうか」
命を削るような懇願。 エリオットの口元が、不謹慎にも微かに吊り上がる。
金欠の今、渡りに船。 それに、ただの銀貨ではない。忍びの郷へ入るための「信用」という通貨も手に入る。
「交渉成立だ」
快諾。 老人の手を取り、力強く握り返す。
◇◆◇
木陰。 傷ついた体を休める一行の元へ戻る。
「……てなわけで、仕事を見つけてきましたぜ」
事もなげに語るエリオット。 手には、前金として預かった数枚の銀貨。
「狙いは『月光・曼珠沙華』。場所は、あの岩山」 「敵は『鴉天狗』の群れ」
簡潔な状況説明。
「報酬は銀貨と、里への『伝手』」 「文無しの俺たちに、断る理由はありませんよね?」
悪びれもせず、ウィンクしてみせる情報屋。 その顔には、「これで宿代と飯代は確保した」という安堵の色が浮かんでいた。
包帯の下で痛む傷を押さえながら、短く息を吐く。 視線はすでに、霧に煙る岩山を捉えている。
『……上等だ。リハビリには丁度いい』
フェンリルが、静かに牙を剥く。 治療の前のひと仕事。 死の山への登山が、今始まる。




