EP35・ダルクニクスの憂い
聖ノルヴァキア王国、王都。
石畳を濡らすのは、雨ではない。粛清の嵐が吹き荒れた後の、生暖かい血溜まり。
前王の寵愛を受けた革新派の側妃。そして、王位継承権を持つその子息。
罪状は「国家転覆の謀反」。無論、捏造された大義名分だ。だが、真実など些末な問題に過ぎない。
必要なのは、幼き現王アルスの地位を脅かす「芽」を摘むこと。
鎮圧軍を自ら指揮し、一族郎党、根絶やしにする。抵抗する間も与えない、一方的な殺戮。
まだ温かい血が、白手袋に染み込んでいる。その感触を残したまま、ダルクニクスは王城の回廊を歩く。
「……報告を」
謁見の間。玉座に座るのは、まだ年端もいかない少年王、アルス。その御前で膝をつく。
「逆賊どもは全て処断いたしました。これにて王国の憂いは断たれました」
幼き王は、ただ無言で頷くのみ。その瞳に宿るのは、宰相への全幅の信頼か——あるいは、畏怖か。
その時。背後の扉が開き、伝令兵が転がり込んでくる。
「も、申し上げます! 宰相閣下、凶報が……!」
「黙れ」
冷徹な一喝。
「陛下の御前であるぞ。分をわきまえろ」
「は、ハッ! 申し訳ございません……!」
青ざめて平伏する兵士。一瞥もせず、恭しく王に一礼し、謁見の間を後にする。
◇
重厚な扉が閉ざされる。その先で待っていたのは、妖艶な喪服に身を包んだ女性。王太后、エリス。
「……これは、王太后陛下」
「ダルクニクス卿。……血の匂いがしますわ」
扇で口元を隠すが、その瞳は熱っぽく濡れている。
「このような折に、血生臭くて申し訳ありません。汚れ仕事は、私の領分ですので」
「良いのです。……首尾は?」
「何も問題ありません。憂いは全て排除しました」
一歩、距離を詰めるエリス。香水の甘い香りが、血臭と混じり合う。
「ダルクニクス卿……いいえ、ダルク」
「今宵は、空いていますか? 最近、全然……その……」
媚びを含んだ、甘えるような声色。かつての、そして今も続く、背徳の関係。
だが、冷たく視線を逸らす。
「……すいませんが、陛下」
「……!」
「いいえ、エリス。今は孤独に耐えてください」
「全ては、アルス様の為。この国の礎を盤石にするためです」
拒絶。エリスの瞳が揺れる。だが、それ以上は言わせず、足早にその場を立ち去る。背中に刺さる視線を振り切るように。
◇
宰相執務室。
いつもの革張りの椅子。だが、そこに座る主の顔色は冷静さを欠いている。部屋の隅、配下の将校が青ざめた顔で直立不動の姿勢をとっていた。
手袋を脱ぎ捨て、問いかける。
「……何だ。凶報とは」
「申せ」
「はッ……! 南方、禁領区にて……追跡に向かっていたライザ殿が、反逆者グレンと交戦。重傷を負わされ、戦線から離脱しました」
「……何だと!?」
ドンッ!!
厚い執務机が、拳の直撃に悲鳴を上げる。叩きつけられた衝撃でインク壺が跳ね、黒い染みが重要書類の上に広がっていく。
「グレン……あの老いぼれが、出てきたというのか!」
「さ、さらに……同地にて、封印されていた『獣神の力を宿す魔女』が解放されたとの情報が……」
「…………何、だと?」
地を這うような、低い声。革靴が空を切り、重い衝撃音が響く。
蹴り飛ばされた革椅子が、無惨に床を転がっていた。
ライザが敗北。魔女の解放。それはつまり、最悪の結末を意味する。
「ということは、アーシェも奪還されたか……」
脳裏に浮かぶ、作戦の崩壊図。最強の剣士ライザが倒れ、手駒として放った「最凶の毒の刃」——ジュリエッタも、連絡が途絶えている。そして、新たな魔女が敵に回った。
完璧だったはずの布陣。盤石だったはずの支配。たった一人の「イレギュラー」によって、音を立てて崩れ去ろうとしている。
「クソッ……! 全てが裏目に出ている……!」
歯ぎしりの音。血管が浮き上がるほどの激昂。
「おのれぇ……ハーヴィー……ッ!」
「許さんぞ! 貴様だけは……!」
「必ず、この手で息の根を止めてやる……」
執務室に、押し殺した憎悪の唸りが響き渡る。
窓の外。王都の空には、不穏な暗雲が立ち込めていた。




