EP34・錆びた誓い
鉛色の波を切り裂き、船がロザリア大陸南端――ウォーデン共和国の岸壁へ接岸する。
鼻孔を突くのは、魔力の甘い残滓じゃない。 焦げた石炭、錆びた鉄。そして肺腑にへばりつく重油の臭気。 見上げれば、黒煙を吐き出す無数の煙突が、曇天をさらに汚している。
ここは聖ノルヴァキア王国の威光が届かぬ土地。 魔法という奇跡に見放され、生き残るために鉄と科学を選んだ異端の国。
「コソコソする必要はありませんよ」
エリオットが不敵に笑う。
「手配済みだ。裏社会の情報網を使い、『シャドウ・ヴェイン』の名において現地のレジスタンスに協力を取り付けた」
堂々とタラップを降りる。 異国の土を踏むブーツの音が、硬質に響いた。
◇◆◇
街外れ。廃工場の一角にある診療所。 湿った空気と、消毒用アルコールの刺激臭が充満している。
粗末な机の上、エリオットが一枚の羊皮紙を広げた。
「見ろよ、この絶望的な配色を」
指先が、大陸の半分以上を毒々しい「赤」で塗りつぶされた地図をなぞる。 聖ノルヴァキア王国――ダルクニクスと奴が支配する魔法の版図。 世界は今、血に沈みかけている。
「俺たちがいるのはここ。南端の半島。赤色に抗う小さな灰色の点だ」
指先が東へと滑る。
「そして目的地は敵の喉元……忍びの郷」
地図の上では数センチ。だがその道程は、死地への片道切符に等しい。
「……話は終わりか? ならさっさと始めろ」
上着を脱ぎ捨て、診察台に腰掛ける。 老医師が無言で準備を進めていた。
魔法無効の体質ゆえ、癒しの光は及ばない。頼れるのは原始的な外科手術のみ。 気付けの強い酒をあおる。 喉を焼く熱塊が胃の腑に落ちた――その時。
「……いくぞ」
医師の無慈悲な宣告。 皮膚へ、湾曲した縫合針が突き刺さる。
肉を縫い、千切れた血管を強引に結ぶ感触。 白熱した鉄串をねじ込まれるごとき激痛が、脳髄を直接犯していく。 全身から脂汗が噴き出すが――歯が砕けるほどに喰いしばり、ただ耐える。
悲鳴だけは、絶対に上げない。 ここで弱音を吐けば、心が折れるからだ。
永遠にも感じる、のたうち回るような苦悶の時間。 その様を部屋の隅から腕を組み、静かに見つめる影があった。
◇◆◇
処置が終わる。 荒い息。包帯に滲む赤。だが命脈は繋がった。
ふいに、影が動く。 薄暗い照明の下へ歩み出たのは、絹糸のような金色の長髪を持つ男。 女と見紛うほどに整った、陶器のような美貌のハーフエルフ。
だが、その優雅な容姿とは裏腹に、全身からは研ぎ澄まされた凶器の気配が放たれている。
壁に立てかけられていたのは、男の身の丈をも超える巨大な鋼鉄――ハルバード(斧槍)。 繊細なエルフの腕にはあまりに無骨で、巨大すぎる殺戮兵器。
スナイデル。 レジスタンス『アイアン・オース』第7特殊部隊「錆びた釘」隊長。 今回、場所と医師を手配した男だ。
彼は一言も発さない。 挨拶も労いも、自己紹介さえもしない。 ただ細い腕を伸ばし、巨大なハルバードを片手で軽々と持ち上げてみせる。
重量を感じさせない、洗練された暴力。
一瞬だけ視線が交錯し、冷徹な瞳の奥に深い意志が宿るのを確かに見た。
(――死ぬな)
言葉にはせず、ただ背中で語り、踵を返す。 ふわりと金髪を揺らし、扉を開く。 吹き込む雨の匂いと共に、男の姿は夜の闇へと溶けていく。
「……行っちまったか」
エリオットが息を吐く。その表情は安堵ではなく、厳しい現実に引き戻された顔だ。
「旦那。奴の義理はここまでだ」
冷たい宣告。
「ここから先は、俺たちだけで死地を潜るしかない」
孤立無援。後ろ盾は消えた。 これから向かうのは敵の領域。
ふとテーブルを見れば、スナイデルが手を置いていた場所に小さな包みが残されている。 ガラス瓶に入った最高級の鎮痛剤。 そして、貴重な大口径の弾薬箱。
言葉少ない男の、不器用すぎる置き土産。
「……フッ。キザな野郎だ」
口元が微かに緩む。 痛みは引かない。だが震えは止まった。
鎮痛剤を飲み干し、冷たい弾丸をシリンダーに一発ずつ込めていく。 装填完了。シリンダーを戻し、ホルスターに叩き込む。
準備は整った。 目指すは――死と陰謀が渦巻く忍びの郷。




