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EP33・死線と命脈

白い包帯が、見る見るうちに赤黒く染まる。何度巻き直しても、無駄。肉が、骨が、血管が、再生を拒絶する。

魔法無効——最強の盾は今、治療さえも許さない「呪い」と化している。

視界が明滅する。まるで、油の切れた古びたランタンのように。世界がノイズ混じりの砂嵐に覆われ、仲間の声が遠い。

深い、深い水の底に沈んでいく感覚。

「……バーレイグ! ……かりしろ!」

エリオットの焦燥に満ちた声も、鼓膜を叩く単なる振動に過ぎない。指先一つ動かすのに、万の重りを持ち上げるような倦怠感。

(……足手まといか)

乾いた唇から、自嘲が漏れる。笑えない冗談だ。常人なら、とっくに冷たい骸に変わっている出血量。心臓を動かしているのは、生命力ではない。妄執にも似た「意地」だけ。

「見つけたぞ!」

天幕に飛び込んでくるエリオット。その手には、『蜘蛛の巣』から届いた羊皮紙。

「ロザリア大陸の東端。『隠れ里』に伝わる独自の医療術がある」

「魔法じゃない。気の流れと生命力そのものを操作し、縫い合わせる禁断の医術……《命脈の術式》」

魔法が効かないなら、理で治す。唯一残された、細い糸。

その時。白い羽ばたきと共に、天幕の隙間から一羽の鳩が舞い降りる。足に結ばれた、見覚えのある手紙。

『――忍びの郷へ行け』

戦慄。寒気とは違う震えが、背筋を走る。

グレンフォール。あの老人は、この窮地さえも予見していたのか。もはや「助言」ではない。盤上の駒を動かす、不気味な「神の手」。苛立ちを通り越し、底知れぬ恐怖すら覚える。

だが、迷っている時間はない。

「行きますよ」

断言するエリオット。かつての軽薄な運び屋の面影はない。一人の参謀としての、冷徹な判断。

「でも、エリオットさん……あそこは……」

不安げなレネの声。

「ああ。分かってる」

忍びの郷。かつては独立を貫いた誇り高き戦闘民族の里。だが、それは過去の話。

現在は聖ノルヴァキア王国の属国。つまり、敵地——ダルクニクスの庭のど真ん中。

「だが、行くしかない」

血の海に沈む身体を見据えるエリオット。選択肢などない。ここに留まれば、死。行けば、あるいは——。

「急ぐぞ。一刻の猶予もない」

死神との追いかけっこ。目的地は東。敵兵と暗殺者が潜む、死の影の里へ。



静寂が戻った禁領区。バーレイグ達が去った後の湖畔に、一人の老人が音もなく姿を現す。

グレンフォール。黄昏の賢者。永い眠りについた黄金樹レントを見上げ、深く息を吐く。

「……何とかアーシェは無事に奪還できたようじゃな。バーレイグ……いや、『炎の眼を持つ者』よ」

独りごちる声は、湖面を渡る風に溶ける。

「次は、絆の力を試されるか」

感慨に浸る老人の背後。静寂を切り裂くように、鋭い殺気が踏み込む。

追跡者。『閃光の剣神』ライザ。

「……クソッ! 一足遅かったか」

獲物を逃した苛立ち。その矛先は、目前の老人へと向けられる。

「またしても貴様の仕業か、グレン!」

怒号。だが、グレンは柳のように受け流す。

「おや、ダルクニクスの差し金か? 随分とお早いご登場で」

「残念じゃが、舞台の幕はもうとっくに下りましたぞ? 閃光の剣神殿」

あからさまな皮肉。ライザの理性が弾け飛ぶ。

「黙れ!」

抜剣。神速の踏み込み。視認不可能な速度で放たれた刃が、グレンめがけて袈裟懸けに振り下ろされる。

確かな手応え。刃が肉を断ち、骨を砕く、重く湿った感触が掌に伝わる。

だが——噴き出すはずの鮮血がない。

斬り裂かれた老人の身体が、陽炎のようにゆらりと歪む。次の瞬間、その姿は霧散し、ただの白煙となって空に溶けた。

「……幻影?」

驚愕に目を見開く。背後。死角に立つ気配。

「《賢聖の法》——『陽炎翻襲リバース・ファントム』」

耳元で囁かれる呪言。身動き一つできない。

不可視の刃が、ライザ自身の身体を袈裟懸けに切り裂く。今しがた彼女が放った「最強の斬撃」そのもの。放ったはずの暴力が、因果を捻じ曲げられ、己が身へと跳ね返ったのだ。

鮮血の花火。自らの剣技で斬り伏せられた剣神が、崩れ落ちる。

見下ろすグレン。その瞳に、勝利の喜びはない。あるのは、深い哀れみと、冷徹な理。

「お主の光の法では、儂の影は踏めんよ」

「原初の魔法の前では、やはり無力も同然か」

指を鳴らす。世界が書き換わる。ライザの致命傷が、死なない程度にまで強引に「修復」される。

「お主には暫くここで、大人しくしていてもらおう」

悔しさに歯噛みし、睨みつけるライザ。グレンは彼女に背を向け、虚空へと語りかける。

「……ハーヴィーよ。お主にはすまないが」

その言葉は、懺悔。

「儂ら『原初の魔法を盗みし者』の悪業……それを正し、滅ぼすことができるのは」

「この世界の狂った理の外側……『外界』から落ちてきた、お主にしかできんのじゃ」

独り言を残し、老人の姿が揺らぐ。風が止んだ時、そこにはもう、誰もいなかった。



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