EP29・穢れを纏う魔女
眩い黄金の光がゆっくりと収束していく。
開かれた繭の中、黄金の樹液が編み上げた揺り籠。そこに、一人の少女が眠っている。
(……子供?)
年は10歳ほど。あまりに小さく、無防備な姿だ。これが、あの黄金樹が「試練」として差し出してきたものなのか。
戸惑いながらも一歩近づいた、その時。少女の長い睫毛が微かに震える。
ゆっくりと瞼が持ち上がり、眠たげな瞳が姿を現した。少女は覚醒しきらない様子で数回まばたきをすると、目の前のバーレイグの姿をぼんやりと捉えた。
「……ふにぁ?」
まるで子猫のような、間の抜けた愛らしい声。一瞬毒気を抜かれそうになりながらも、即座に観察を再開する——そして、違和感に気づく。
少女が身じろぎし、寝起きの仕草で頭を小さく振る。その拍子に、乱れた髪の間から、人間にはありえない「耳」が覗いた。ピンと立った、柔らかな毛に覆われた獣の耳。
少女は状況が飲み込めないまま小さくあくびをする。開かれた小さな口の端から、鋭く尖った「牙」が確認できる。
(……耳? 牙?)
視線が鋭くなる。少女がもぞもぞと身体を起こした時、揺り籠から一本のふさふさとした「尻尾」が垂れ下がっていた。
獣の耳、鋭い牙、そして尻尾。だが、それ以外は——肌も、手足の造形も、全て人間の幼い少女のものと寸分違わない。
(何だ、この子は……? 獣人……という奴か?)
この幼い獣人の少女が、二人目の『黙示録の魔女』だというのか。
答えの出ない問いを抱えたまま口を開こうとした、その時。湖畔で様子を見守っていたレネが、少女の姿を認め、息を呑んだ。
「……あ……」
次の瞬間、レネは魔力の消耗も忘れ、湖の浅瀬を駆け抜けた。
「フィンロッド!」
「え?」まだ眠たげだった獣人の少女——フィンロッドは、自分を呼ぶ声に目を見開く。その小さな身体を、レネはためらうことなく力いっぱい抱きしめた。
「お久しぶりです……! フィンロッド! 会いたかった……!」
「え? え? ……あ! もしかして、レネ姉!? わぁ、レネ姉だぁ!」
永い、永い時を経ての再会。フィンロッドはレネの背中に小さな腕を回し、二人は再会を喜び合う。
その光景をただ静かに見つめる。
(……そうか。永い間、引き離されて、封印されていたからな)
純粋な喜びを爆発させる二人の魔女の姿が、記憶の奥底にある、守れなかった笑顔を呼び起こす。
(アーシェ……)
その時、エリオットが警戒を解かずに低い声で呟いた。
「……なぁ、バーレイグ。何か、おかしくないか?」
「何がだ?」
「こんなにも、すんなりと解放されるものなのか? 俺たちが警戒してた『穢れを纏う魔女』ってのは、あの無邪気な子供のことなのか?」
その言葉に、ハッと我に返る。エリオットの言う通りだ。
(レネの時でさえ、あれだけ大変だったのに……)
重力の暴走、命がけの戦闘。それに比べ、今回はどうだ。ヒュドラは倒したが、それはただの侵入者であり、魔女本人との戦闘はない。
(それに、『試練』とは何だったんだ? 黄金樹のレントは、確かにそう言ったはずだ)
視線を、湖畔で様子を静観するレントへと向ける。
レントは、こちらの視線を察したようだった。重々しい口が、真実を告げるために開かれる。
『……勇者よ。お前の疑問はもっともだ』
再会を喜ぶ二人の声を遮るように、厳かに響く。
『フィンロッド様は、我が永きに渡り護ってきた故に、精神の汚染……すなわち『魔女化』は避けられた』
「!」
『だが、その代償として……ワシは『奴ら』と取引をしてしまったのだ』
「取引だと……?」
『そうだ。フィンロッド様を『穢れ』から守り続けるために。ワシは、フィンロッド様をワシの胎の中……あの繭で封印することと引き換えに、この森が蓄えた『魔法の力』の源泉を、『奴ら』に明け渡したのだ』
レントの告白は衝撃的だった。
『すまぬ……。致し方なかったとはいえ、結果として、この歪な世界を創ることにワシも一役買ってしまったのだ……』
黄金樹の「顔」が、苦渋に歪む。
『そして、勇者よ。そなたに与えると言った『試練』だが……』
一度言葉を切り、まるで許しを乞うかのように続ける。
『そなたに訪れる、これから先の**『禍々しい試練』**。それをワシは、ただ傍観することしかできぬ。……身勝手なワシらを許せ、勇者よ』
そして、レントは一つの願いを口にする。
『頼む。どうか、この歪な世界を……破壊してくれ』
「……………」
偽りの世界。魔法の力を渡す取引。歪な世界の破壊。
(いったい、あんたはさっきから何を言ってるんだ……?)
レントは疲弊したように、その「目」を閉じようとする。
『……ここは『奴ら』の監視区域。禁領区だ。もはや、ワシの力も……』
「おい、待て!」
消え入りそうなレントに問いただす。「『奴ら』とは誰のことを言ってやがる!? 取引の相手は誰だ!? いったい何なんだ、さっきから!」
焦りを帯びた詰問に対し、レントの「顔」はもはや風前の灯火のように輪郭さえぼやけ始めている。だが、その「目」は最後にバーレイグをまっすぐに見据えた。
『……勇者よ。ワシには……世界を見通す『目』と、未来を見通す『目』がある』
声は、もはや巨木を震わすほどの力はなく、脳内に直接、か細く響く。
『この先、どのような……耐え難い悲劇が訪れようとも……』
『もし、汝ならば……』
そこで、言葉は途切れた。
浮かび上がっていた荘厳な「顔」が、ゆっくりと樹皮の中へと溶けるように戻っていく。幹の表面はただの黄金樹へと回帰し、繭の鼓動も静かに止まった。
黄金樹レントは、最後の力を振り絞って言葉を遺し、深い眠りに落ちた。
「おいっ! 待て、レント!」
叫ぶが、答えはない。
「クソッ……! マジで何なんだよ、一体……! 『奴ら』だの『悲劇』だの、肝心なことを何一つ……!」
やり場のない怒りと混乱に拳を握りしめた、その時。
背後より、気配。
今しがた渡ってきた湖畔から、微かな、しかし明確な「人の気配」を感じ取った。
(……! 仲間か?)
違う。ベッカーやエリオット、レネたちとは全く質の異なる、冷たく、研ぎ澄まされた気配。
全身が、ヒュドラと対峙した時以上の緊張に包まれる。
(……まさか)
呪われた右目が、疼く。フィンロッドとレネを庇うように立ち位置を変えながら、ゆっくりと振り返る。
そして——絶句した。
湖のほとり。そこに、一人の女性が、まるで亡霊のように静かに立っていた。
黒髪の長い髪は泥に汚れ、束になって張り付いている。優美だったはずの衣服は見るも無惨に引き裂かれ、ボロボロの姿。瞳は虚ろで、焦点が合っていない。
だが——その顔を、見間違えるはずがない。
全てを捨ててでも、救い出すと誓った、ただ一人の女性。
「……あ……」
絞り出すような声が、やがて絶叫に変わる。
「アーシェッ!!」
理性が、焼き切れる。黄金樹の警告も、世界の謎も、全てが思考から消し飛ぶ。
「アーシェ! 無事なのか!?」
「待て、バーレイグ!」背中に、エリオットの鋭い制止の声。「様子がおかしい! 罠だ!」
「バーレイグさん、待って!」レネもフィンロッドを庇いながら叫ぶ。《重なりの法》の感知能力が、アーシェの姿から放たれる禍々しい気配に警鐘を鳴らす。
だが、その声は届かない。
(今、アーシェが目の前にいるんだぞ!)
「邪魔だぁッ! どけぇッ!!」
仲間の制止を、怒号で振り払う。
今のハーヴィーにとって、その声は全てアーシェを阻む「障害」でしかなかった。
「アーシェ! 今行くぞ!」
湖の水を蹴って走り寄ろうとした、まさにその時。
大地が爆ぜる。
轟音と共に土砂が舞い上がった。バーレイグとアーシェの姿を遮るように、中間地点の地面から無数の巨大な影が突如として出現する。
獣の咆哮。
狼だ。だが、通常の狼ではない。馬ほどもある巨体に、飢えたような不気味な紅い光を瞳に宿した、ダイアウルフの群れ。
まるで地中でこの瞬間を待ち伏せていたかのように——一斉に襲い掛かる。
お疲れ様です。 読んでいただきありがとうございました。 今後ともハーヴィーの応援をよろしくお願いいたします。千樹より。




