EP30・裏切りの牙
「危ない、バーレイグ!!」
湖畔に響く、レネの絶叫。だが——その警告は、アーシェの姿に理性を焼かれた思考には届かない。
地中から放たれた無数の影。反応するには、あまりにも遅すぎた。
ダイアウルフの群れが、一切の躊躇なく四肢めがけて牙を突き立てる。硬い革鎧が紙のように貫かれ、筋肉繊維が断ち切られる、鈍く湿った感触。
「が、あ、あ、あああああああぁぁぁーーッ!!」
凄まじい衝撃と共に、湖の浅瀬へ叩きつけられる。両腕、両脚。四肢全てに巨大な獣の顎が喰らいつき、身体を地面に縫い付けていく。
激痛。傷口から溢れ出すおびただしい血が、清らかだった湖水を急速に赤黒く染め上げていく。
「バーレイグさん!」
重力操作で助けに入ろうとするレネ。その時だった。
背後で響く、低く、地を這うような唸り声。
「……フェンリル?」
振り返るレネ。神狼フェンリルが紅い瞳を憎悪にぎらつかせ、飛びかかってくる。
(まさか!? アーシェさんの《獣の法》の影響が、召喚獣であるフェンリルにまで……!?)
咄嗟に後方へ跳ぶ。仲間であったはずの神狼が向ける、明確な殺意。
「くっ……!」
バーレイグを助けに行きたい。だが、その衝動を必死にこらえ、両手をフェンリルへと向ける。
「《重なりの法》——『重力封鎖グラビティ・コンテイン』!!」
仲間を傷つけたくない。圧殺ではなく、拘束だけをイメージして。突進してきたフェンリルの巨体が見えない重力の壁に阻まれ、動きを封じられる。重圧から逃れようと、苦しげにもがく神狼。
バーレイグは狼の群れに拘束され、レネはフェンリルに手一杯。戦況は、一瞬にして崩壊した。
「フィン!」
唯一動ける存在——湖の中心で惨状に困惑している少女に懇願する。
「お願い、フィン! バーレイグと、それから……アーシェさんを助けて!」
「え? え??」
フィンロッドは、血を流す男、牙を剥く狼、泣きそうな顔で叫ぶ女、そして湖畔に虚ろに立つ女を、困惑の極みで見回す。状況が全く理解できていない。だが、内に眠る『始祖』としての野生の勘が、事態の深刻さを告げる。
「わ、解ったにゃぁー!」
状況もわからぬまま、必死の願いに応えるべく黄金の繭から飛び出す。水飛沫を上げ、湖の浅瀬を駆け抜ける幼い少女。バーレイグを拘束するダイアウルフと、湖畔に虚ろに立つアーシェの中間地点に着地する。
まず、元凶と思しきアーシェと対峙。じっ、と獣の耳をピンと立て、その匂いと気配を探る。
「……あれにゃぁ?」
不思議そうに小首を傾げるフィンロッド。目の前に立つ黒髪の女性は、確かにそこに「立っている」のに、まるで「生きていない」かのよう。
(この人、心が空っぽにゃ……? どこにもいないにゃ?)
だが同時に、その空っぽの身体から、自分と非常によく似た、懐かしい力の波動を感じ取る。
(しかも、わっちと同じ……獣と心、かよわせれる人だにゃ?)
その時。苦痛の呻き声。
視線を転じると、血の海に沈み、四肢を狼に噛み砕かれながら、意識を失うまいと必死に耐えているバーレイグの姿。
「にゃあぁ!? ウウゥッ……!」
一瞬で青ざめる。あの巨木が「勇者」と呼び、レネが「助けて」と叫んだ男。その彼が、今にも死にそうになっている。
「やばにゃ! 助けなきゃ!」
アーシェを放置し、救助へと駆け出そうとする。だが、その小さな身体の前に、残っていたダイアウルフ数体が立ちはだかり、敵意の牙を剥き出しにする。
「どいてにゃ!」
叫ぶが、狼たちは殺意を増すばかり。
(……そっか。この子たちも、あの空っぽの人に操られて、無理やり戦わされてるにゃ……)
狼たちを睨みつけるのをやめる。武器を構えるどころか、その小さな両手をふわりと広げる。まるで、目の前の凶暴な獣たちを抱きしめるかのように。
「怖かったね。痛かったね。もう、大丈夫だにゃ」
身体から溢れ出す、黄金の光。バーレイグの《天の法》のような厳しさも、レネの《重なりの法》のような圧力も持たない。ただ、ひたすらに温かく、全てを包み込むような、穏やかな「慈しみ」の波動。
殺意を剥き出しにしていたダイアウルフたちの動きが、ピタリと止まる。紅く濁っていた瞳から、強制的な支配の光が薄れていく。
それこそが、彼女の力——《慈愛の法》。全ての生命を慈しみ、愛し、そして愛される存在たる「聖女」の法。
「もう、いいんだにゃ。お眠りなさい」
優しく微笑むフィンロッド。あれほど凶暴だったダイアウルフたちは戦意を完全に失い、その場に小さく鼻を鳴らして伏せこむ。まるで母親に抱かれた赤子のように、安らかな寝息を立て始めた。
アーシェが使う《獣の法》が、獣を使役し「支配」する法であるならば——フィンロッドの《慈愛の法》は、獣の闘争本能すら「抱擁」し、鎮める力。《獣の法》は、この《慈愛の法》から派生したにすぎない。すなわち、彼女の法こそが、全ての獣の法の頂点に立つ、始祖の力。
ダイアウルフの群れが一斉に沈黙したのを見て、湖畔からレネの必死の声が飛ぶ。
「フィン! こっちもお願い!」
未だ暴れようともがく神狼フェンリルを《重力封鎖》で押さえつけたままだ。ヒュドラの攻撃で負った重傷の傷口が、重力操作の負荷によってさらに開き、おびただしい血が流れ続けている。いくら神狼とはいえ、このままでは致命的になりかねない。かと言って、我を失っているフェンリルを解放するのはあまりにも危険だ。
(このままじゃ、フェンリルが死んじゃう……!)
レネの悲痛な叫びに、即座に反応する。
「解ったにゃ!」
まず血の海に沈むバーレイグの元へと駆け寄る。その小さな体で、荒い息をつき意識が朦朧とし始めているバーレイグの頭を、そっと膝の上に抱きかかえる。
「もう大丈夫だにゃ。わっちが守るにゃ」
そう呟くと、古の響きを持つ呪文を早口で唱え始めた。獣たちの荒ぶる魂を鎮めるための言霊。
続けて、バーレイグの頭を優しく抱いたまま、透き通るような声で「歌」を奏で始める。
歌詞のない、ただ響くだけの旋律。だが、その歌声には《慈愛の法》の力が込められている。遥か太古の昔、荒ぶる獣たちを癒し、聖域へと導いた「始祖」だけが歌える、魂の子守唄。
あれほど凶暴に暴れ、レネの重力に抗っていたフェンリルの動きが、ピタリと止まる。紅く染まっていた瞳から殺意と混乱が消え、静かに鼻を鳴らす。
フェンリルの殺意が完全に消えたのを確信し、慌てて《重力封鎖》を解くレネ。解放されたフェンリルは、もはや襲いかかることなく、その場に伏せて荒い息をつくだけ。
フィンロッドの歌声が、森全体に響き渡る。先ほどまでバーレイグの四肢に喰らいついていたダイアウルフたちも牙を収め、まるで忠実な番犬のように周囲を取り囲んで座り込む。
歌うのをやめ、バーレイグの頭を優しく撫でながら、獣たちに毅然とした声で命じる。
「お座り、だにゃ!」
その場にいた全てのダイアウルフたちが、一斉に小さく鳴き、素直にその場に「お座り」の姿勢を取る。
戦場の支配者は、今や完全に、この幼い聖女へと移っていた。




