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21.愛か金か


 リカルドお父様の視線が、自信なさげに泳いだ。


「それはおかしい」


 声も弱々しくなっていた。


「あなたの申し出を拒否することが、どうして公共の福祉に反することになるのですか?」


 アボニーの丘の草むらに立つノックス大賢者の青いローブが、風にはためいた。


「公共の福祉とは人々の幸福。幸福の源は知恵。知恵の源は賢者。つまり、【賢者十段】である私の言葉に素直に従うことこそが、公共の福祉になるのです」


 父上は納得しなかった。


「しかしこれは、公共に属する話ではない。我が娘個人のことだ。しかも娘の幸福は、まったく考慮されていない」

「いいえ」


 ノックス大賢者はコンマ数秒で否定した。


「私のパートナーになることは、もっとも知恵のある行動です。すなわち最高に幸福になります」

「違う!」


 父上も即座に否定する。


「幸福の源は知恵だと? 笑わせるな。ジュリアを幸福にするカギは、ズバリ、わしの溺愛だ!」


 敬語を忘れて妄言を吐いた父上に対して、大賢者はどこまでも冷静だった。


「あなたは知恵よりも、溺愛が人を幸せにするというのですか?」

「そうだ。溺愛より尊いものはない」

「ではお尋ねします。溺愛の定義とは何ですか?」

「溺愛の定義……」


 父上がぐっと顎を引いた。そして言った。


「溺愛とは、愛に溺れること。すなわち愛が、海の水のように溢れている状態のことだ!」

「フッ」


 大賢者が失笑した。


「溺れていては、人を幸福にするどころか、自分が死んでしまいます。まさに知恵の正反対。溺愛は、決して幸福にはつながらないのです」


 私はつい、うんうんと頷いてしまった。

 大賢者が重ねて言う。


「愛は儚い、愛は虚しい、愛は移ろう。それに対して、かねは裏切らない、金は有益、金は潤いーー」

「何と!」


 父上は飛び上がった。


「あなたは、愛よりも金が大事だと言うのか?」

「その通りです。愛は変化しますが、預金は消えません。どちらが頼りになりますか?」

「大賢者! あんた間違ってるよ!」

「いいえ。私は決して間違えません」


 父上とノックス大賢者が言い争っていると、


「お姉様、ちょっと」


 全身灯油まみれのアンドレアが、私の腕を引いた。


「どうしたの?」


 巨岩の陰に連れられたところで訊いた。


「死んで直訴をするのをやめたから、これあげる」


 弟が突き出した手には、小さな箱があった。

 受け取って開けてみると、中には小さな玉が収まっていた。

 その玉は、7色の不思議な光を放っていた。


「これ……どうしたの?」

「ミラクルスフィアだよ。お姉様にあげようと思って買ったんだ」

「……ミラクルスフィア?」

「うん。効果はズバリ守護。身に着けてるだけで、どんな危険からも護られるんだって」


 ため息をついた。


「それが本当なら苦労しないわね。あなた、騙されたのよ」

「そんなことないよ。これがいちばん売れてる商品だって、魔石屋の店主も超オススメだったよ」

「よく考えて。もしどんな危険からも護られるんなら、これさえ持ってれば、事故にも災害にも遭わないってことになるでしょ。そんなことあると思う?」

「あなたたち、何をコソコソしてるの?」


 突然背後から、パトリシアお母様の声が飛んだ。


「アンドレア、またプレゼント? いい加減に目を覚ましなさい。いくらジュリアを溺愛しても、ジュリアから溺愛は返ってこないわよ。その代わりに、お母様が溺愛してあ、げ、る」


 母上はアンドレアに近づくと、ギュッと抱き締めた。

 その瞬間、


「気持ち悪いって言ってんだろ!」


 母上を思い切り突き飛ばした。


「おい、何をしてる?」


 草むらに大の字に倒れた母上を冷たく見降ろして、リカルドお父様が言った。


「愛と金のどっちが大事か、いくら言い争っても平行線だ。そこで女の意見を聞きたいんだが、お前はどっちだと思う?」

「それは、あなた」


 母上が、ゆっくりと身を起こした。


「もし愛がなかったら、わたくしは1秒だって生きていられません。愛に勝るものなど何一つありませんわ」

「お言葉ですが、奥様」


 ノックス大賢者が、青いローブをはためかせながら歩いてきた。


「レヴォワール家の皆様は、大変お金持ちです。お金に余裕があると、愛を求める気持ちが強くなります。しかしながら、お金がなければ愛などと言ってはいられない。つまり、お金に不自由しないことが何より大事なのです」


 庶民の生活を考えなさい、とノックス大賢者は畳み掛けた。


「先ほどこの丘に集まったのは、裕福な貴族ではありません。汗水流して働いて、その日の暮らしがやっとの平民たちです。私は彼らに幸福になってもらいたい。そのために、知恵を授けに来たのです」

「それは善いことだが」


 リカルドお父様が腕組みをして言う。


「愛を否定されると納得できん。いくら金があっても、愛がなければ人は幸福にはなれんだろう?」

「なれますよ」


 大賢者の切れ長の眼は、あくまでも涼しげだ。


「金があれば何でも買えます。それで充分幸福です。しかし金がなければ、食べることができません。溢れるほど愛があっても、食べられなければ死にます。それで果たして幸福ですか?」

 

 愛が大事だなどと言うのは、貴族の戯言ですよと大賢者は言った。


「あなた方とこれ以上議論するのは無駄です。1ナーロにもなりません。さあ、どうぞこちらへ」


 大賢者の長い腕が、私に向かって差し伸べられた。


「ジュリアお嬢様。あなたの美貌は噂通りですね。溺愛の砦に固く守られているお嬢様がいると聞いて、それはぜひ私の知恵で解放させてあげたいと思いました。どうか私のパートナーになって、世界中の人々を幸福にする旅について来て下さい」



 溺愛の砦に固く守られて……

 そう。それは本当だ。

 私は溺愛の塔に幽閉されている。

 そしてーー

 そこから解放させてあげたいと言う人が、初めて現れた。


 

「ジュリアお嬢様。私は、あなたに一目惚れしてしまいました」


 ノックス大賢者の声が、天から降る雨のように私に注がれた。


「嘘ではありません。あなたを幸福にしたい。溺愛とは違う方法で。【賢者十段】の私の知恵で、あなたを圧倒的に幸福にします」


 自信に満ちあふれたプロポーズ。

 嗚呼……

 どうして?

 どうして私は、こんなにドキドキしているの?

 まさかだけど、初めて会ったばかりの大賢者様を、もう好きになってしまったの?


「ジュリアお嬢様。どうかパートナーになって下さい」

 

 ノックス大賢者が、手を伸ばしたまま穏やかに微笑む。


「結婚しろとは言いません。私は契約に縛られるのが嫌いですから、自由なパートナーの関係でいましょう。もしこの申し出を断わったら、たぶんあなたは、一生溺愛の砦から出られません。それはわかっておられますね?」


 返事をできなかった。

 身体が痺れて、頷くことも首を振ることもできなかった。

 ただ勝手に、涙が流れた。

 何の涙だろう?

 自分の心がわからない……


「やめろ! 娘が嫌がってるだろ!」


 父上が真っ赤な顔で怒鳴った。


「そうだ! 妹はお前のことなんか好きじゃない!」


 レオナルドお兄様も叫んだ。


「そうだそうだ! お前みたいな愛がないやつに、命より大事なお姉様を渡せるもんか!!」


 弟のアンドレアも吠えた。


「おやおや。わからない人たちですね」


 ノックス大賢者が風のように動き、私をあっという間に抱きすくめた。


「では仕方ありません。私と勝負しましょう」


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