第九話「新月」
夜番の交代を終えて、レインは詰所に戻った。
同僚が「今夜は静かだな」と言った。レインは「ああ」とだけ答えた。
部屋には、一年経っても、特に華やかなものはなかった。寝床と剣立てと、机が一つ。窓は小さく、外からの光はほとんど入らない。荷物も、来たときから増えていない。増やす気がなかった。
ここは、長くいる場所ではない。そう思っていた。一年経っても、その気持ちだけは変わらなかった。
寝床に腰を下ろした。剣を傍に立てかけた。
目を閉じると、一年前のことが浮かんできた。
あの頃、自分は前線にいた。
戦場は苛烈だったが、剣を持てば負ける気がしなかった。実際に負けなかった。名のある魔族とも何度か剣を交えた。生きて戻ってきた。隊の中でも、活躍している方だった。
戦線は、突破できる距離まで来ていた。あと一歩、あと半歩——そう思える位置まで、押し込んでいた。
そんな矢先だった。
「今は耐えるときだ。無理に攻めるタイミングではない」
上司にそう言われた。
激しく反論した。今しかないと言った。今を逃せば、また同じ場所まで押し戻されると言った。
上司は、最後まで首を縦に振らなかった。
次の日、王都に呼び戻された。
教皇サルゴンとアリアの前に、初めて立った日のことを、レインは今でもはっきり覚えている。アリアは絶世の美人と言われてもおかしくなかった。本当に、美しかった。
そのアリアの口から、辺境への移転が告げられた。
アリアは納得していない表情だった。レインは恐れながら反論した。今が攻めどきだと、繰り返し言った。
教皇サルゴンが、静かに言った。
「これから、勇者が我々の前に現れるだろう。そなたを失うわけにはいかぬ」
いるかもわからない勇者を待つために、自分が前線から引かれる。
ていのいい、左遷の理由だ、と思った。
そして今は、このざまだ。
ろくに敵が来るわけでもない辺境の村で、夜番をして、寝床に戻る。一年前まで、戦場の最前線で剣を振っていた自分が。
不機嫌な感情のまま、レインは目を閉じた。明日には気分が良くなるだろうと思いながら。
夢の中だった。
なぜか、はっきりと意識はしていた。これは夢だ、とわかっていた。
目の前に、ヴァルが立っていた。
あの胡散臭い男だ。最近、村に来るようになった、ふざけた態度の——
(なんで夢でこいつに会うんだ)
ヴァルが口を開いた。はっきりした声だった。
「起きろ」
「……は?」
「教会に走れ」
目が、開いた。
飛び起きた。
寝床から転がるように降りて、剣を掴んだ。何が起きているのかわからなかった。ただ、体が動いていた。
扉を蹴り開けた。
廊下に、すでに影があった。
「——っ!」
剣を抜くのと、影が踏み込んでくるのが同時だった。刃が交わる音が、夜の詰所に響いた。
仲間の部屋からも音が聞こえた。叫び声。途切れる音。
レインは歯を食いしばった。
十人近かった。
夜が来ていた。
月のない夜だった。空には星だけが出ていたが、雲が流れてくるとそれも消えた。村の輪郭が、闇の中にぼんやりと溶けていく。風はなかった。静かすぎるくらい、静かだった。
セリアはヴァルの隣で、暗い村を見ていた。
「……本当に今夜ですか」
「新月だ」とヴァルが言った。「暗い夜を選ぶのは、当たり前の判断だ」
それ以上は言わなかった。
セリアは膝の上で手を組んだ。自分には一般人以上の戦闘力はない。ヴァルも同じだ。もし本当に何かが来たとして、自分たちに何ができるのか。
考えても答えは出なかった。
ただ、隣にヴァルがいる。
今のセリアが縋れるものは、それしかなかった。
最初に動いたのは、影だった。
村の外れで、多くのフードの人影が、走っていた。家々の間を、音もなく。
ヴァルが、目を閉じた。
空気が、わずかに動いた。
「……え?」セリアが息を呑んだ。「神力——戻ってたんですか!?」
「戻ってない」
「でも今——」
「セトの分と、雨乞いで村人に感謝された分が、少しだけ残ってた。それだけだ」
「ならちゃちゃっと倒してくださいよ!」
「無理だ」ヴァルが目を開けた。「大したことはできない」
「じゃあ何を——」
「お告げを送る」
セリアが「は?」と言った。
「俺を信じる者に、夢で告げる。教会に走れと。それしかできない」
「それ……それで本当に大丈夫なんですか」
「大丈夫じゃない。でも、それしかない」
ヴァルが立ち上がった。
「セリア、お前は教会に行け。村人を中に入れろ」
「ヴァル様は——」
「俺はもう少し、ここで送り続ける」
「でも!」
「行け」
セリアは唇を噛んだ。それから、走り出した。
その背中が見えなくなってから、ヴァルは再び目を閉じた。
届く相手は、多くない。セト。ノア。雨の日に空を見上げて泣いていた、何人かの村人。
それから——。
雨の中で、いつの間にか剣の柄から手を離していた、あの騎士の姿が浮かんだ。
「……あの堅物にも、届けばいいが」
詰所の方で、声が上がった。
ノアは、目を覚ました。
夢の中で、ヴァルの声が聞こえた。はっきりと。教会に走れ、と。
寝間着のまま部屋を出ると、廊下にセトがいた。
「ノア! 起きて! 父ちゃんと母ちゃん起こさなきゃ!」
「セト、なんで——」
「夢で言われたの! 教会だって!」
ノアは目を瞬いた。同じ夢を見ていた。
二人で両親を起こした。カルロとエマは寝ぼけ眼で、何が起きているのかわからない様子だった。「夢で——」とセトが言いかけたとき、ノアもうまく説明できなかった。ただ、教会に行かなくてはいけない、ということだけは、なぜかわかっていた。
そのときだった。
扉が、ゆっくりと、静かに開く音がした。
誰かが、入ってきた。
三人だった。
マントを着ていた。手に短い剣を持っていた。
最初の男が、低い声で言った。
「子供は生け捕りだ。男は殺せ」
カルロが立ち上がった。エマがその腕を掴んだ。何か言おうとした。声が出なかった。
男の一人がカルロに踏み込んだ。
カルロは農家だ。日々の畑仕事で体は鍛えられている。でも、戦いは素人だ。剣を持った相手にあっさり勝てるわけがない。一撃目を腕で受けた。血が飛んだ。膝をついた。
エマが二人の前に出た。セトとノアを背にして、両手を広げた。
「やめて——」
別の男が、エマの肩を掴んで突き飛ばした。エマが床に倒れた。
もう一人の男が、セトの襟首を掴んだ。
小さな体が、床から浮いた。
「やだ……っ、やだ! ノア! ノアぁ!」
セトが手足をばたつかせる。男は構わず、片腕でセトを抱え込んだ。
ノアは、動けなかった。
足が、床に縫いつけられたようだった。膝が震えている。息が、うまく吸えない。目の前で、刃が闇の中に鈍く光っていた。カルロの血の匂いが、部屋に満ちていた。
(どうしよう)
(どうしよう、どうしよう——)
頭の中が真っ白だった。
そのとき、なぜか、一つの背中が浮かんだ。
夜明け前の、詰所の裏。まだ誰も起きていない時間に、一人で剣を振っていた赤い髪の騎士。水汲みに出るとき、何度か遠くから見たことがある。声をかけたことはない。見ていると気づかれたくなくて、いつも足早に通り過ぎた。
ただ、あの背中だけは、覚えていた。
誰に頼まれたわけでもないのに、毎朝、黙って剣を振っていた背中。頼まれてもいないのに守ろうとする、あの目と同じ背中。
息苦しいと思っていた。
でも今は——あの背中が、ひどく羨ましかった。
「ノアぁ!」
セトの声が、もう一度、ノアを呼んだ。
その瞬間。
震えが、止まった。
考える前に、足が出ていた。
床を蹴る。セトを抱えた男の手首を、内側から弾く。男の腕が緩んだ。セトの体が、床に落ちた。
男が短剣を振り上げた。刃が、ノアの頬をかすめた。熱い。でも、止まらなかった。
ノアの目が、一瞬だけ地面を見た。着地点を確かめた。次の瞬間には、足が振り上がっていた。
顎に、入った。
骨の鈍い音がして、男が倒れた。
ノアは止まらなかった。倒れた男の体を、両手で掴んで、振り回した。カルロを襲っていた男に向かって、投げた。
男同士がぶつかって、二人とも転がった。
最後の一人——エマを突き飛ばした男が、ノアの方を向こうとした。
ノアはすでに動いていた。背後に回り込んでいた。
飛びかかった。両腕で首に鍵をかけた。そのまま後ろに倒した。男の手がノアの腕を掴んだ。引き剥がそうとした。両手で、必死に。
ノアの腕は、外れなかった。
しばらくして、男の手が床に落ちた。
一瞬だった。
ノアが床に立っていた。三人の男が動かなくなっていた。
息が、上がっていた。
武器を持っていた相手だった。三人ともだ。それなのに——なぜか、勝てた。
三人とも、最初は自分に意識を向けていなかった。それが幸いだった。
でも、それだけじゃない、と感じた。
追い詰められたら、力が出た。
今までこんなことができたことなど、なかった。
ノアは、自分の手を見た。
震えていた。さっきまで、人の首を締め上げていた手だった。
何をしたのか、自分でもわからなかった。どうしてあんなふうに体が動いたのかも。
怖かった。男たちよりも、今の自分の方が。
顔を上げられなかった。家族がどんな目で自分を見ているのか、知るのが怖かった。拾われてきた子が、得体の知れない力で人を倒した。そんな娘を——。
足音がした。
カルロだった。血の流れる腕を押さえながら、よろめいて、ノアの前に立った。
ノアは目をつぶった。
次の瞬間、体ごと、引き寄せられた。
カルロの腕だった。傷ついた方の腕まで使って、ノアを抱きしめていた。エマが、その上からセトごと腕を回した。セトが、泣きながらノアの服を掴んだ。
「……あー、よかった」
カルロの声が、震えていた。
「失わなかった。失わなかったな」
口数の少ない父だった。ノアのことを娘と呼んで、それ以上も以下も言わない人だった。
その父が、ノアの頭に手を置いた。
「お前もだ、ノア。……よく、守ってくれた」
ノアの喉の奥で、何かが詰まった。
お前も。
その一言が、胸の一番奥まで落ちてきた。十年ずっと、言葉にされないまま、ノアが確かめられずにいたものだった。
ノアは、父の服を握った。強く、握った。
声は出なかった。ただ、しばらく、その腕の中から動けなかった。
状況を把握した両親は、慣れない手つきで、盗賊三人を縄で縛り上げた。床に転がしたまま放置して、四人で家を出た。
外の村は、悲鳴と物音に満ちていた。
他の家も襲われていた。助けに行きたい、という顔をエマがしたが、カルロが首を振った。
「今は、無理だ」
声が、低かった。
セトを抱きかかえて、走り出した。エマが黙ってついていった。カルロの頭から、血が流れていた。
ノアは少し遅れて走った。
もし、自分が起きていなかったら——もし、ヴァルの声が夢に届いていなかったら——
今、家族は生きていなかった。
そう思った瞬間、足が震えた。
胸元に手を当てた。羽と剣のペンダントを、強く握った。
力をくれる気がした。理屈ではない。ただ、握っていれば、走れた。
教会についたとき、村の三分の一ほどの人間が集まっていた。
扉の前で、セリアが声を張り上げていた。
「皆さん、中に入ってください! 慌てないで! 中は安全です!」
その声を聞いて、ノアは少しだけ、息ができた。
教会は居住区から離れている。盗賊はまだここまで探しに来ていないらしい。中に入ると、見慣れた顔が多かった。ただ、怪我をしている者も多かった。子供の泣き声、大人の呻き声、誰かが祈っている声——それが混ざり合って、礼拝堂の空気が重かった。
奥まで進んで、女神像のすぐ下に、家族で座った。
女神像の前では、年老いた神官が膝をつき、一心に祈りを捧げていた。外から悲鳴が聞こえても、怪我人が運び込まれても、神官は顔を上げなかった。ただ、女神の名を繰り返していた。
カルロが頭の血を布で押さえていた。エマがその布を取り替えた。セトはノアの腕にしがみついて離れなかった。
セリアがキョロキョロと礼拝堂を見回していた。
ノアたちを見つけて、走ってきた。
二人を抱きしめた。
「……よかった。よくここまで来てくれました」
ノアの目に、涙が浮かんだ。我慢していたものが、急に出てきた。
セトも泣き始めた。ずっと我慢していたのだろう。声を出して、子供のように、泣いた。
ノアはセトを抱きしめた。エマがその二人を抱きしめた。カルロが、その全部に手を回した。
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
ノアが顔を上げたとき、ふと、気づいた。
「……ヴァルは」
セリアの肩が、わずかに揺れた。
「まだ、戻ってきてません」
「え——」
「教会に行けと言われて、私だけ先に。ヴァル様は、その後すぐ、村の方に」
「……そんな」
ノアの中で、何かが冷たくなった。
あの人が、戻ってこない。
いやな想像が、頭をよぎった。
失うかもしれない、と思った。出会ってまだそれほど経っていないのに。なぜか、その想像は、両親を失うかもしれないと思ったときと、似た重さで、胸を押した。
ノアは扉を見た。
閉めきれずに、少しだけ開いたままの扉。その隙間から、外の闇が覗いていた。
悲鳴は、少しずつ遠くなっていた。それが、助かった人が増えたからなのか、それとも——叫べる人が減ったからなのか、ノアにはわからなかった。
セリアも、扉を見ていた。両手を胸の前で組んで、指の関節が白くなるほど握りしめていた。
女神像の前では、老神官がまだ祈り続けていた。かすれた声で、同じ言葉を、何度も。
誰かが、ぽつりと呟いた。
「……祈ったって、来やしないさ」
誰も、何も言わなかった。
ノアは胸元のペンダントを握った。羽と剣の、冷たい感触。
(早く、戻ってきて)
祈るような気持ちだった。でも、誰に祈っているのか、自分でもわからなかった。
そのとき。
外で、足音がした。
礼拝堂の空気が、一瞬で凍りついた。何人かが、子供を抱き寄せた。カルロが、傷ついた腕でエマとセトを背に庇った。
足音は、まっすぐこちらに向かってくる。
重い。ゆっくりとした、引きずるような足音だった。
ノアは息を止めた。
扉が、軋みながら、開いた。
ヴァルが、入ってきた。
怪我をしていた。腕から血が流れていた。マントが破れていた。
そして——両腕に、赤ん坊を二人、抱えていた。
セリアが駆け寄った。その目は、潤んでいた。
「ヴァル様……っ、大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃないです、血が——」
ヴァルがセリアを見た。
「……お前、泣いてるのか」
「だって——」
「馬鹿だな」
ヴァルが、静かに言った。
「俺は神だから死なない」
その声には、何かが混じっていた。
神だから死なない。でも、殺された人間は生き返らない。悲鳴を聞きながら、赤ん坊しか助けられなかった。そのことを——ヴァルは、言葉にしなかった。
セリアは、それを察した。
だから、何も言えなかった。
ヴァルは、礼拝堂を見渡した。
俯いている若い母親に、近づいた。
「おい」
母親が、死んだような顔で、顔を上げた。
ヴァルはそれ以上、何も聞かなかった。腕の中の赤ん坊を一人、母親の腕にそっと渡した。
「大事にしろよ」
優しい声だった。普段とは別人のような、静かな声だった。
母親が震える手で赤ん坊を受け取った。それから、声を上げて、泣いた。赤ん坊を強く、強く抱きしめて、泣いた。
ヴァルは、別の家族のところに歩いていった。同じように、もう一人の赤ん坊を渡した。その家族も、泣いた。
ノアは、それを見ていた。
赤ん坊を抱きしめて泣く母親の姿を、見ていた。
(……自分も、ああだったのかな)
誰かが、自分を抱きしめて泣いてくれたことが、あったのだろうか。
赤ん坊は、親にとって、かけがえのない存在ではないのか。
ならばなぜ——
ノアの胸の奥で、何かが、重く、押し寄せた。捨てられた、という事実が。
その重さに、押し潰されそうになった。
そのとき、エマがノアを抱きしめた。
何も言わずに。ただ、強く。
ノアは、エマの肩に顔を埋めた。
同じものを、感じることができた気がした。今、母親たちが赤ん坊に注いでいるのと、同じものを。
涙が、止まらなかった。
ヴァルが、ノアたちに気づいた。
その表情が、少しだけ和らいだ。
すぐに、外を見た。
セリアが「ヴァル様、早く扉を閉めましょう」と言った。
「まだだ」
「え?」
「あいつが来ていない」
「あいつ……?」
ヴァルは答えなかった。
そのとき。
暗闇から、人影が現れた。
セリアが息を呑んだ。
「ぞ、盗賊ですか——」
ヴァルが、息を吐いた。
「それなら、もうおしまいだ」
神力は、もう残っていなかった。戦う力は、まるでない。教会に集まった者たちにも、戦う術はない。だからここに集まっている。
あとは、信じるしかなかった。
あいつが盗賊より先に、ここに来ることを。
暗闇から、影が近づいてくる。
その手に、剣があった。
そして、声がした。
「……遅い」
ヴァルだった。声を、影に向かって投げた。
影が、入り口の光の中に出てきた。
レインだった。
体は、ボロボロだった。鎧のあちこちが裂け、顔にも傷があり、足を引きずっていた。それでも、立っていた。
レインが、ヴァルを見た。
悪態を、つきながら、入ってきた。
「……こっちの台詞だ。早く、入れろ」
ヴァルは、鼻で笑った。
扉が、閉められた。
*次話「籠城戦」に続く*
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次話は明日の19:10に投稿します。




