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契約の神は有料です  作者: 小説家になれない人
第一章「初回契約」

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第八話「静かな村」


河から帰る道の途中で、セトが「先に帰る!」と走り出した。


「転ぶよ」とノアが言った。


「転ばない!」とセトが叫んだ。


その背中が角を曲がって消えた。ノアは足を止めた。


気がつくと、いつもと違う方向へ歩いていた。


---


女神の教会は、村の中心から少し外れた場所にある。石造りの小さな建物だ。祈りや儀式は、女神教から遣わされた年老いた神官が執り行っているが、建物の鍵や修繕といった細かな管理は、村長が兼任で引き受けている。扉は夕方になると閉まる。祈りたければ外壁の前でもできる、という建前で、村人の多くは昼間に来て帰っていく。


夕暮れどきに一人でここに来る人間は、あまりいない。


ノアはその扉の前に立った。


石畳は雨のせいでまだ湿っていた。教会の白い壁が、沈みかけた光を受けて、ぼんやりと赤みを帯びている。


ここに来るのは、久しぶりだった。


女神に祈りに来たわけではない。ノアは女神をそれほど信じていない。信じていないというより——信じ方がわからない、というのが正確だ。祈っても何も変わらなかった日が、何度もあった。だから今は、セトの真似をして手を合わせる程度だ。


それでもここに来るのは、別の理由だった。


十年ほど前、ノアはここに置いていかれた。


正確には教会の裏手、石壁のそばだ。誰かに手を引かれて、この村まで連れてこられた。それだけは覚えている。大きな手だった。けれど、その顔も声も、もう思い出せない。


気がついたときには、その手はなかった。石壁の前でうずくまって泣いていたところを、朝の祈りに来たセトの父カルロが見つけた。


持っていたのは、首から下げた小さなペンダントが一つ。それだけだった。


ノアは石壁に背を預けた。


今さら、と思う。


今さらここに来て、何になる。十年だ。十年のあいだ、誰も来なかった。手を引いてきたあの誰かも、もしいるなら本当の親も、もうここには来ない人間だ。あるいは死んでいるかもしれない。あるいは——最初から、戻るつもりなどなかったのかもしれない。


ろくな人間ではないだろう、とノアは思う。何があったにせよ、子供を石壁の前に置いていく理由など、ろくなものではない。


それはわかっている。


今の家族に不満はない。カルロは口数が少ないが誠実だ。エマは明るくてよく気がつく。セトは——セトは、ただ一緒にいてくれる。それがどれだけ大事なことか、ノアにはわかっている。


満足している。本当に。


それでも。


ノアは胸元に手を当てた。服の下に、細い鎖がある。


ここに来ると、会えるような気がする。


論理ではない。ただそう感じる。この場所に来れば、何かがわかるような。この石壁が、まだ何かを知っているような。


そんなことはないと、頭ではわかっている。


それでも来てしまう。


ノアは石壁を見た。十年前と同じ石が、同じ場所に積まれている。その前に、今のノアが立っている。


(……なんで来たんだろう)


答えは出なかった。いつも出ない。


それでも、少しだけ——ここに来ると、息ができる気がした。誰にも説明できない、ただそれだけの理由で、ノアはたまにここへ来る。


---


「良い子は家に帰る時間だぞ」


声がして、ノアは顔を上げた。


教会の角から、騎士服の男が歩いてきた。十八か十九か、その程度の若さだった。真面目そうな顔に、腰には剣。カルナ村の駐屯兵の一人だ。


レインといった。一年ほど前から村にいる。


「魔族に食われてしまうぞ」


ノアは一拍、黙った。


「……子供じゃない」


「一人で日が暮れてから外にいれば、子供と変わらない」


「変わる」


「なぜ」


「自分の判断で外にいるから」


レインが少し黙った。言い返し方を探しているようだった。


ノアはこの騎士が苦手だった。悪い人ではないとわかっている。真面目で、強いらしいとも聞いている。でも、この目が——何かを守ろうとする目が——うまく受け取れない。


頼まれてもいないのに守られることが、息苦しかった。


「なら」とレインが言った。「悪い子は外にいていいのか」


「いい」


「……そういう意味では」


「なら私は悪い子でいい」


レインが困ったような顔をした。本当に困っているようだった。


ノアは少し、言い過ぎたかと思った。この騎士は、心配しているだけだ。それはわかっている。


「……帰る」とノアは言った。


「そうしてくれ」レインが少し間を置いた。「最近、この辺りで盗賊や人さらいの話が増えている。一人での外出は気をつけてくれ」


「わかった」


ノアは歩き出した。二歩ほど行ったところで、振り返らずに言った。


「……ありがとう」


レインは何も言わなかった。


---


家に帰ると、飯の匂いがした。


扉を開けた瞬間、セトが「おそい!」と言った。ノアは「うるさい」と言いながら中に入った。


台所からエマが顔を出した。三十代に入ったばかりの、日焼けした丸顔。笑うと目が細くなる。


「おかえり。手、洗った?」


「今から」


夕食は、かぼちゃの入った汁物と、黒っぽい麦のパンだった。量は多くはない。でも雨が降る前の頃に比べれば、ずっとましだった。


カルロは食卓についてから、手を組んで少しだけ目を閉じた。女神への祈りの仕草だ。毎食、欠かさない。


ノアはその横顔を見た。


父は何も言わない。ノアのことを娘と呼んで、それ以上も以下もない。何年も前から、ずっとそうだ。


でも時々——本当にたまに——エマとカルロが目を合わせる瞬間がある。ノアが何かを頑張って見せたとき。ノアが笑ったとき。言葉にはならない、ただの視線の交わりだ。


その意味を、ノアはうまく受け取れない。


嬉しいのか。申し訳ないのか。自分でも、よくわからなかった。


---


夜が深くなってから、セトは早々に眠ってしまった。エマとカルロも、明日も早いからと部屋に引っ込んだ。


ノアは一人、窓際に座った。


空には、糸のように細い月が出ていた。光が弱く、周りの闇をかえって際立たせるような、妙に落ち着かない月だった。明日の夜には、もう消える。そう思うと、なぜか少しだけ、息が詰まる気がした。


胸元に手を当てた。服の下に、細い鎖がある。引き出すと、小さなペンダントが手の中に落ちた。


羽と剣を組み合わせた形をしている。金属製で、古びていた。でも、ノアが毎日触るせいか、ところどころに小さな光沢がある。


石壁の前で泣いていたあの日、首から下げていたものだ。


誰がくれたのか。なぜ持っていたのか。何も、わからない。


ノアは羽と剣のペンダントを掌の中で転がした。


ヴァルの拠点の軒先に、木のペンダントが吊るされている。大きな木が彫り込まれた、素朴な作りのもの。「欲しくなったら取りに来い」とヴァルは言った。


欲しくないわけではなかった。


ただ、これと並べることが——なぜか、できなかった。理屈ではない。ただ、できなかった。


セリアのことを思い出した。


「友達になりましょう。私、こっちには友達がいないので」


変な人だ、と思った。でも、その「うん」は本当に口から出た言葉だった。


初めてだった。村の外で、自分に向かってそう言ってきた人間は。


ノアは羽と剣のペンダントを服の中に戻した。


明日も、早い。


---


翌朝、ヴァルが来た。


セリアを連れて、畑の方へ歩いてくるのを、水汲みに出たセトが見つけた。


「ヴァルさん! セリアさん!」


「うるさい」とヴァルが言った。


「おはようございます!」とセリアが笑った。


ヴァルは大きな袋を二つ担いでいた。セリアも同じくらいの袋を一つ。朝の光の中でも、その表情は相変わらず気だるそうだった。


「また助けに来てやった」


「ありがとうございます! でも何を——」


「畑を見せろ」


村人が集まってきた。雨乞いの神様が来た、と声が広まるのは早かった。村長が出てきて、丁寧に頭を下げた。


ヴァルは村長の挨拶を三言で切り上げ、畑の端から歩き始めた。


土を見る。株の根元を見る。葉の色を見る。それから黙って袋を開けた。


中から出てきたのは、灰色の粉と、黒っぽい土の塊だった。


「……何ですか、それ」とセリアが小声で聞いた。


「草木灰と骨粉と堆肥だ」


「……それ、ほぼ詐欺じゃないですか」


「神の恵みだ、黙ってろ」


セリアは口を閉じた。


ヴァルは袋の中身を手で掬い、畑の株の根元に丁寧に撒いていった。村人たちは最初、黙って見ていた。やがて一人が手伝い始め、それが広がった。


老婆が両手を合わせて「神様、ありがとうございます」と呟いた。


ヴァルは否定しなかった。


---


作業の合間、ヴァルが村の中を歩いた。用があるわけでもなさそうだった。ただ、ゆっくりと。


広場の端に、荷馬車が五台並んでいた。


昨日から滞在している商人一行のものだ。三十人ほどの集団で、食料や水を気前よく買い、今日も村に残っている。フード付きのマントを着た者が多く、顔はよく見えない。


ヴァルはそこで足を止めた。


荷馬車の車輪を、一瞬だけ見た。


それだけだった。


セリアはその横顔を見た。何かを考えているような、いつもと同じ気だるそうな顔だった。何も変わっていなかった。


ヴァルはすぐに歩き出した。


---


昼過ぎ、レインが広場に出てきた。


ヴァルを見て、眉を寄せた。


ヴァルはその瞬間、ちらりとレインを見た。


前に会ったときは、剣の柄に手をかけて食ってかかってくる、堅物の若造としか思わなかった。だが、こうして改めて見ると、印象が違った。


剣の柄が、すり減っている。飾りではなく、使い込んだすり減り方だ。立ち方も、重心の置き方も——ただの駐屯兵ではない。この村の規模に置くには、明らかに過剰な練度だった。


(……相当やる)


それだけではなかった。よくよく見ると、もう一つ気になるものがあった。前に会ったときは、気にも留めなかったものだ。言葉にはしなかった。ただ、目を細めた。


(しかも、赤髪——)


「あんた、また来たのか」


「また来た」


「村人から何かを騙し取ってないだろうな」


「騙し取ってない。ただ撒いてきた」


「何を」


「肥料だ」


レインが少し黙った。


「……肥料」


「骨粉と草木灰と堆肥。三日後に株の様子を見ろ。変わってる」


「なぜそんなことを」


「神の気まぐれだ」


「そんな理由で——」


「他に何が必要だ」


レインが口を閉じた。言い返せなかったようだった。ヴァルはすでに興味を失ったように、別の方向を向いていた。


セリアが小声でレインに言った。


「悪い人じゃないんですよ」


「そう見えない」


「そう見えないだけで」


レインがノアの方を見た。ノアは畑の片付けを手伝っていた。


「……あの子は、最近よく笑うようになった」


「そうですか?」


「前は笑わなかった。村で、一人でいることが多かった」


セリアはレインを見た。この騎士は、一年間、ちゃんと見ていたのだ。


「あんたたちが来てから、変わった」レインがヴァルの背中を見た。「認めたくはないが」


「認めなくていいですよ」とセリアが言った。「本人に言ったら調子に乗るので」


レインが少し、困ったような顔をした。


---


日が傾いてきた頃、商人一行がまだ村にいた。


ノアが気づいたのは、セトが井戸の近くにいるときだった。


マントを着た男が、セトに何かを渡しながら話しかけていた。菓子か何か、甘そうなものだった。セトが嬉しそうに受け取ろうとしている。


「セト」


ノアが近づいた。男が振り返った。フードの奥の目が、一瞬だけ——何かを値踏みするような光を持った。


赤かった、と思った。目が。ほんの一瞬で、見間違いかもしれない。でも、ノアの足が無意識に止まった。


「お姉さんも、よかったら」と男が言った。


「いらない」ノアはセトの手を引いた。「セト、行くよ」


「え、でもお菓子が——」


「いらない」


男は何も言わなかった。ただ、その目がノアの後ろ姿を、少しの間、追っていた。


---


夕暮れ時、セリアはヴァルの隣を歩きながら、小声で言った。


「……商人たち、まだいますね」


「いる」


「なんか、変じゃないですか。もう夕方なのに出発しないなんて」


「そうだな」


「ヴァル様、さっき荷馬車を見てましたよね」


ヴァルは答えなかった。


「何か、気になることがあったんですか」


「ない」


セリアはヴァルの横顔を見た。いつもと同じ、気だるそうな顔だった。


でも——何かが、少しだけ違った。


うまく言えなかった。ただ、違った。


「……ヴァル様」


「なんだ」


「今夜、拠点に帰らないつもりですか」


ヴァルは少しの間、黙っていた。


「お前は帰っていい」


セリアは足を止めなかった。


「帰りません」


「余計な手間だ」


「構いません」


ヴァルが横目でセリアを見た。それから、前を向いた。


「……好きにしろ」


ヴァルが足を止めた。村長の家の方を向いた。


「少し待ってろ」


「どこへ——」


「村長に話がある。すぐ終わる」


セリアは黙ってその場に立った。ヴァルの背中が村長宅の扉の前に消えるのを見た。


空を見上げた。


昨夜、糸のように細く残っていた月が、どこにもなかった。


今夜は、新月だった。


今夜は、暗い。


村が、夜の色に染まっていった。


---


*次話「新月」に続く*

お読みいただきありがとうございます。次話は明日19:10に投稿します。

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