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契約の神は有料です  作者: 小説家になれない人
第一章「初回契約」

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第十話「籠城戦」


扉が閉まった音が、礼拝堂に響いた。


重い音だった。外の世界を遮断する、確かな音だった。


レインが内側から鉄の閂を下ろした。ガチャリと、頑丈な音が響く。この教会は村で唯一の石造りの建物だ。扉も分厚い。簡単には破られない。


閂を下ろしながら、レインがふと眉を寄せた。


「……この教会、夜は鍵がかかっているはずだが」


「今夜は開けておくようにと、ヴァル様に頼まれておりましてな」


村長が答えた。


「理由は伺っておりませんが」


レインがヴァルを見た。


ヴァルは肩をすくめた。


「憶測だったからな。外れたら、ただの戸締まり忘れだ」


レインは扉に背を預けて、ゆっくりと床に座り込んだ。顔には血が滲み、腕も足も傷だらけだった。それでも、剣だけは手放さなかった。


ヴァルがレインの前にしゃがみ込んだ。


「……生きてるか」


「生きてる」


「どのくらいやった」


「十五は倒した。仲間は——」


レインが言葉を切った。ヴァルは何も言わなかった。


セリアが布と水を持ってきた。レインの傷を拭い始める。レインは「自分でできる」と言ったが、セリアは「黙ってください」と遮った。


ヴァルは立ち上がって、礼拝堂を見渡した。


集まった村人は、おおよそ四十人ほどだった。村の人口からすれば、半分程度。残りは——逃げ遅れたか、隠れているか、あるいは。


考えても仕方がなかった。


誰も、口をきかなかった。


赤ん坊が、か細い声で泣いていた。誰かが、押し殺した声で泣いていた。壁際にうずくまった老人が、膝を抱えて小さく揺れていた。女神像の前では、老神官が祈り続けていた。


扉一枚の向こうに、盗賊がいる。


それを、誰もが知っていた。


ヴァルは女神像の前に立った。


大きな石像だった。両手を広げて、穏やかな微笑みを浮かべている。慈悲深い表情、という言い方が正しいのだろう。でもヴァルには、ただの石にしか見えなかった。


「……偽善者め」


小さく呟いた。誰にも聞こえない声で。


---


しばらくして、レインが顔を上げた。


「……これからどうする」


ヴァルを見る目には、僅かな期待が宿っていた。レインは騎士だ。戦闘の専門家だ。でも今、戦術を神に問うている。それだけ、追い詰められているということだった。


ヴァルは少しだけ驚いた顔をした。すぐに、いつもの気だるげな表情に戻る。


「ここに立てこもる。お前の回復を待つ」


「……それだけか」


「今はな」


レインが眉を寄せた。何か言いかけた、そのときだった。


扉を乱暴に叩く音が響いた。


礼拝堂の空気が、凍りついた。


「おい、ここにいるんだろう!」


低い、しゃがれた声だった。


「俺は盗賊団『人の罪』のリーダー、ガスってもんだ! おとなしく出てきてくれよ!」


誰かが悲鳴を飲み込んだ。母親たちが子供を抱き寄せた。老人が、震える手で耳を塞いだ。


ガスの声が続いた。


「悪いようにしないからよう! ああ、でも変態貴族には売るけどよう! がははは!」


外で、笑い声が響いた。


ヴァルは耳を澄ませた。笑い声の数を数える。


(……そこまで多くはなさそうだ)


レインが立ち上がろうとした。セリアが肩を押さえた。


「まだ無理です!」


「しかし、このままでは——」


「レイン」ヴァルが低い声で言った。「相手の出方を見たい。座ってろ」


レインが歯噛みした。でも、座った。


ヴァルはセリアを見た。


目で合図する。


セリアが首を傾げた。ヴァルが小声で言った。


「お前が話せ」


「え、私?」


「こういうのは女がいいんだよ」


セリアが目を見開いた。


ヴァルはすでに布と炭を取り出して、何かを書き始めていた。書き終えると、セリアに見せた。


『私たちは戦う意志はありません。見逃してくれませんか』


セリアは布を受け取った。深呼吸して、扉に向かって叫んだ。


「私たちは戦う意志はありません! 見逃してくれませんか!」


外が少し静かになった。


それから、ガスの声が響いた。


「お、女か! へー、じゃあいいぜ。お前が、俺の女になるんならな! がはははは!」


セリアが青ざめた。


(お、お、俺の女……?)


天使学校では、こういう場面の対処法は習わなかった。というか、習うわけがなかった。


助けを求めてヴァルを見る。


ヴァルは、すでに次の布に何かを書き始めていた。


さっきより、明らかに筆が速い。炭がさらさらと走る音がする。しかも、ときどき手を止めて、顎に手を当てて考え込んでいる。言い回しを吟味している顔だった。


(……なんでそんなに真剣なんですか)


嫌な予感しかしなかった。


ヴァルが布をこちらに向けた。


セリアは、それを読んだ。


一行目で、思考が止まった。


二行目で、意味がわかった。


三行目で、顔から火が出た。


「……っ!?」


声にならない声が出た。耳の先まで、一気に熱くなった。


「む、無理です! 無理無理無理! なんですかこれ!?」


小声で、全力で抗議した。


「台本だ」


「台本じゃないです! こ、こんなの、天使が口にしていい言葉じゃ——」


「黙れ。天使とか言うな」


「でもっ……!」


「村人の命がかかってる」


「私の尊厳もかかってます!」


「尊厳で腹は膨れん」


「膨れなくていいんです!」


セリアが布を突き返そうとした。ヴァルが押し戻した。突き返した。押し戻した。布が二人の間を往復する。


周りの村人たちが、何事かと二人を見ていた。


ガスが、しびれを切らして怒鳴った。


「おい! どうなんだ! 返事しろ!」


ヴァルが、布をバンバン叩いた。早く読め、という合図だ。


セリアは布を見た。ヴァルを見た。扉を見た。


村人たちの顔を見た。子供を抱いた母親。怯えた老人。祈る神官。


(……これで、この人たちが助かるなら)


深く、息を吸った。


(あとで、絶対、殺す)


セリアは顔を真っ赤にして、扉に向かって叫んだ。


「わ、私……処女ですので……ガス様の、たくましい相手をすると思うと……ここから私が、めちゃめちゃに、されてしまうと想像するだけで……もう、たまらなくて……」


ノアが目を丸くした。カルロとエマが顔を見合わせた。セトが「お姉ちゃん何言ってるの?」と首を傾げた。


セリアは続けた。死にたい、という顔で。


「それに……お仲間さんも、強くて、たくましいのでしょう……私一人では……夜の、自信が、あまり、ありませんの……」


言い終えた瞬間、セリアはヴァルを睨んだ。


(あー死にたい。てか絶対コイツ殺す)


ヴァルがまた布を見せてきた。


『もっとエロくやれバカ』


セリアの中で、何かが切れた。


(あーもう。こいつ消す。消す)


心に誓った。


---


外から、ガスの声が響いた。


「いいねー、それなら! 女全員出てこい! それでいいぜ!」


セリアが扉に向かって叫んだ。


「それでは、何人かに逃げられてしまうのでは……何人がいいですか? 二十人ぐらいですか?」


「いや、なら! 十人だ! まず女十人出てこい! 美人でエロいやつな!」


「じゃあ決めますので……体をきれいにしてから行くので、一時間ください」


「無理だ! 三十分だ!」


「でも、ここには道具も少ないので……順番ですし、一時間ください」セリアが、できるだけ甘ったるい声を出した。「だって、せっかくのガスさんとの初夜を、臭い思い出にしたくないですもん♡」


外が、少し静かになった。


それから、ガスの声が響いた。


「……わかった! 一時間だ! 逃げんなよ!」


足音が遠ざかっていった。


ヴァルが「ふう」と一息ついた。


その瞬間。


セリアが、すごい顔で前に立っているのがわかった。


ヴァルは無視して、礼拝堂の奥に行こうとした。


次の瞬間——


握りこぶしが、思いっきり顔に入っていた。


見えなかった。


気づいたら、天井を向いていた。


(……こいつ、一人で外のやつ全員倒せる)


ヴァルは、そう確信した。


---


ヴァルは少しして立ち上がった。


レインが心配そうに聞いた。


「……大丈夫か」


「問題ない」


適当に答えたが、頬が腫れているのは明らかだった。


セリアはエマに抱きついて泣いていた。


「私、そんな女じゃないんです……誤解しないでください……」


ノアがセリアの背中をさすった。


「大丈夫。あれはヴァルが最低なだけだよ」


「そうそう」エマも優しく言った。「セリアちゃんは悪くないから」


「ヴァル様」


村長が、静かに口を開いた。声は落ち着いていた。だが、その目は笑っていなかった。


「まさか、本当に村の女を差し出すおつもりではありますまいな」


礼拝堂が、しんとした。


さっきまでの笑いが、嘘のように消えていた。母親たちが娘を抱き寄せた。男たちが、ヴァルを見た。一時間後、本当に女たちを差し出すのか。差し出さなければ、どうなるのか。


ヴァルは村長を見た。それから、村人たちの方を向いた。


声を張った。皆に聞こえるように。


「誰も渡さない」


はっきりと、言い切った。


「そして、ここは安全だ」


ざわめきが起きた。疑わしげな目。不安そうな顔。当然だった。たった今、扉の向こうに盗賊がいたのだ。


「今の奴らの話を、お前たちも聞いたな」


ヴァルが扉を指さした。


「奴らは、扉を破らなかった。わざわざ叩いて、名乗って、出てこいと頼んできた。挙げ句、一時間待つと言った」


村人たちが、顔を見合わせた。


「押し入れるだけの数がいるなら、とっくにこの扉を破ってる。破らなかったのは、破れないからだ。中に何人いるかもわからない場所に、少ない手勢で飛び込みたくない」


ヴァルの声は、淡々としていた。


「笑い声を数えた。外にいるのは、せいぜい十人ほどだ。新月の夜を選んだのも同じ理由だ。数が少ないから、闇に紛れるしかなかった」


レインが、目を見開いた。


「……なるほど」


「それに、奴らは人をさらいに来た。子供は生け捕りにしろと言っていたそうだな」


ノアが、小さく頷いた。家に押し入ってきた男の、あの声が耳に残っている。


「商品を殺す人さらいはいない。だから、むやみにこっちの命を奪いはしない。この教会を壊したり、火をつけたりするような真似もしない。中にいる商品ごと燃やすことになるからな」


セリアは、その言葉を聞きながら思った。


(……さっきまでの、ただの推測とは違う)


皆が今、自分の耳で聞いた声。自分の目で見た、破られなかった扉。それが、ヴァルの言葉の根拠になっている。


それでも——確証ではない。


セリアは、それもわかっていた。


ヴァルは、村人たちの顔を一人ずつ見た。


「本当に……助かるのか」


壁際から、声がした。膝を抱えていた老人だった。


「助かる」


ヴァルは即答した。


「わしらは、ただの農民だ。剣も握れん。戦えもせん」


「戦わなくていい。お前たちは、ここで生きていればいい」


ヴァルは一歩、前に出た。


「よく聞け」


声が、礼拝堂の隅々まで通った。


「夜は、必ず明ける。お前たちは明日の朝、自分の足でこの扉を開けて、外に出る。畑を見て、家を見て、自分の家族の顔を、朝日の下で見る」


誰かが、息を呑んだ。


「ここにいる者の命は、必ず助かる」


一拍、間を置く。


ヴァルが、胸を張った。


「お前たちには——このヴァルディオスがついている」


静寂が落ちた。


それを最初に破ったのは、小さな声だった。


「……ヴァルさんの、言う通りだよ」


セトだった。ノアの腕の中で、涙で濡れた顔を上げていた。


「ヴァルさんは、雨を降らせてくれたもん。ぼくらに、教会に行けって、夢で教えてくれたもん。だから——だから、大丈夫だよ!」


八歳の子供の声だった。震えていた。けれど、まっすぐだった。


それが、火種になった。


「……そうだ」


誰かが言った。


「雨を降らせてくださった」


「夢で、お告げを聞いたぞ。わしもだ」


「この人が、赤ん坊を抱えて戻ってきたのを見ただろう」


ざわめきが、広がっていく。さっきまでとは違う。不安ではなく、熱を帯びた声だった。


「ヴァルディオス様——」


「ヴァルディオス様!」


誰かが叫んだ。それに、別の誰かが続いた。泣きながら名前を呼ぶ者がいた。子供を抱きしめて、声を上げて泣く母親がいた。壁際の老人が、ようやく膝から顔を上げ、手を組んでいた。女神像ではなく、ヴァルの方へ向かって。


村長は、何も言わなかった。ただ、ゆっくりと一度だけ頷いた。


ノアは、その光景を見ていた。


さっきまで、ここは墓場のようだった。誰も顔を上げず、誰も口をきかなかった。


それが、今は違う。


泣いている人がいる。けれど、さっきまでの涙とは違う。笑いながら泣いている人がいる。祈るように名前を呼ぶ声がある。


剣も、魔法も使っていない。この人は言葉だけで、四十人の心を、絶望の底から引き上げてみせた。


(……すごい)


胸の奥が、熱くなった。


家で男たちと向き合ったとき、自分は震えていた。体は動いた。けれど、怖くてたまらなかった。自分の家族を守るだけで、精一杯だった。


この人は違う。震えている四十人を、まとめて立たせている。


夜明けの詰所の裏で、剣を振っていた背中を思い出した。そして今、目の前にある、この背中。


剣で守る人がいる。言葉で守る人がいる。


(私も——)


ノアは、拳を握った。


守られるだけじゃなく。いつか、誰かの前に、こうして立てるように。


憧れた。


生まれて初めて、はっきりと、誰かのようになりたいと思った。


---


熱が、礼拝堂を満たしていた。


セトがノアの腕の中で「ほらね、ほらね」と繰り返していた。エマがセリアの手を握って笑っていた。カルロが、傷ついた腕で隣の男の肩を叩いていた。誰かが、隠し持っていたパンを千切って、子供たちに分け始めていた。


その輪から少し離れて、ヴァルは壁にもたれた。


レインが、静かに隣に立った。


「……何人斬れる、と聞かないのか」


「聞こうと思ってた」


「全員だ」


「見栄はいらない」


レインが少し黙った。


「……状況による。だが、五人は必ず斬る」


「十分だ」


ヴァルは、村人たちの輪を見たまま、頭の中で状況を整理した。


教会の人数は四十人ほど。レインは負傷している。敵は十人ほど。


これなら——いける。


だが。


ヴァルの中で、一つの引っかかりが消えなかった。


そもそも盗賊は、なぜ人をさらう。しかも、こんなに大規模に。定期的に少しずつさらった方が、よほど金になる。新月を狙い、下見をしてまで襲うほどの奴らが、一度きりの稼ぎのために動くのか。


大量の「商品」を手に入れたとして、さばけるわけがない。


考えられるのは一つ。


人さらい自体が、本当の目的ではない。


詰所から生き残ったのは、レイン一人。普通、盗賊は騎士との戦闘を避ける。現に十五人も斬られている。それでも、奴らは詰所を襲った。


嫌な予測が、形になりかけた。


詰所を襲う理由——


ドンッ!


扉が、揺れた。


礼拝堂の熱が、一瞬で凍りついた。


ドンッ! ドンッ!


さっきの、ふざけた叩き方ではなかった。拳ではない。何か重いもので、扉そのものを打ちつけている音だった。


パンを分けていた手が止まった。セトの声が途切れた。母親が、子供の口を手で塞いだ。


「おい!」


ガスの声だった。笑っていなかった。


「さっきの女はいるか!」


セリアが、震える声で答えた。


「い、います……」


「そこに、レインとかいう男はいるな!」


問いではなかった。


「そいつを出せ!」


礼拝堂が、静まり返った。


「それと——」


ガスが、一拍置いた。


その間に、扉の下の隙間から、つんとした匂いが流れ込んできた。


誰かが、鼻を押さえた。


油の匂いだった。


「一時間後、そいつを出さなかったら——この教会ごと、焼き払う」


足音が、遠ざかっていった。


---


誰も、動かなかった。


焼き払う。


油の匂いと、その言葉だけが、礼拝堂に残っていた。


「……話が、違うじゃないか」


誰かが、呟いた。


小さな声だった。けれど、静まり返った礼拝堂では、隅々まで届いた。


「火はつけないって……言ったじゃないか」


別の誰かが言った。責めるというより、すがるような声だった。


村人たちの目が、ゆっくりとヴァルに集まった。さっきまでそこにあった希望が、音もなく抜け落ちていく。安堵していた母親の顔から、色が消えた。老人が、また膝に顔を埋めた。


村長は、黙ってヴァルを見ていた。何も言わなかった。それが、何よりも重かった。


ヴァルは、嫌な予感が当たったことを悟った。


盗賊にとって、リスクを取って詰所に攻めたのも——人数が少ない中で教会まで来る理由も——レインだった。


こいつを殺すのも、目的に入っていたんだ。


人をさらうだけなら、火はつけない。だが、レインを殺すためなら——中の人間ごと焼いても構わない、と考える奴が、どこかにいる。


読みが、外れた。


礼拝堂は、重い沈黙に包まれていた。


誰もが、終わったと考えている顔をしていた。


その中で、一人の女性が立ち上がった。


「……私が、行きます」


さっき、ヴァルから赤ん坊を受け取った母親だった。


赤ん坊を抱きしめたまま、震える声で続けた。


「私が行けば……この子が助かるなら……私が……」


セリアが「それは——」と言いかけた。


レインが立ち上がった。


「それは必要ない」


剣を掴んだ。


「俺が一人で出ていって、何人か斬る。その間に全員逃げろ」


レインの目には、覚悟があった。


「何人かは助かる。それに——狙いは俺だ」


セリアは何も言えなかった。村人たちも止めることはできなかった。


皆、それが唯一の方法だと思っている。


その中で、一人だけ、まだヴァルを見ている者がいた。


ノアだった。


ノアは、しがみつくセトの手をそっとエマに預けて、立ち上がった。村人たちの間を抜けて、まっすぐヴァルの前まで歩いていく。


状況が最悪なことは、ノアにもわかっていた。扉の外には盗賊がいる。油の匂いがする。レインは、死にに行こうとしている。さっきまでヴァルを呼んでいた人たちが、今は誰も、この人の方を見ていない。


それでも。


河のほとりで焼いてくれた魚の味を、覚えている。乾いた畑に降った雨の冷たさを、覚えている。夢の中で「教会に走れ」と言った声を、覚えている。


この人が「そうなる」と言ったことは、いつも、そうなった。


だから、聞きたかった。


ほかの誰でもない。この人の口から、もう一度だけ。


「……ねえ」


ノアは、ヴァルを見上げた。


「みんな、助かるんでしょ」


問いかけの形をしていた。けれど、疑っている声ではなかった。答えはもう知っていて、それを、この人の声で聞きたいだけの声だった。


礼拝堂の目が、少しずつ、二人に集まった。


ヴァルは、ノアを見た。


まっすぐな目だった。怖がっている。手も、少し震えている。それでも、その目だけは、少しも揺れていなかった。


少しの間があった。


「ああ」


ヴァルが言った。


「助かる。言っただろ」


ノアは、小さく頷いた。


それだけだった。どうやって、とも聞かなかった。それで十分だ、という顔で、ノアはヴァルの隣に立った。


ヴァルは、礼拝堂を見渡した。


そして——口を開いた。


静かな声だった。礼拝堂の端まで届くほど、大きな声ではなかった。それでも、近くにいた者から順に、顔色が変わっていった。


レインが、目を見開いた。セリアが、息を呑んだ。村長が、杖を握る手に力を込めた。


女神像の前で、老神官が立ち上がった。


「な……なにを、仰る。正気ですか。ここは、女神様の——」


ヴァルは、神官を見なかった。


「ほかに、手はない」


それだけ言った。


沈黙が落ちた。


村人たちは、ヴァルを見ていなかった。その隣に立つ少女を見ていた。


ノアは、真っ先に頷いていた。迷いのない顔で。


村長が、杖で床を一度、強く突いた。


「……皆、聞いたな」


低く、よく通る声だった。


「ヴァル様の言う通りにせい」


誰も、反対しなかった。


---


*次話「罰当たり」に続く*

お読みいただきありがとうございます。

次話は明日10/25の19:10に投稿します。

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