第六話「雨乞いの神」
それから、ノアとセトはたびたび河に来るようになった。
最初は魚目当てだったが、そのうち水汲みのついでに寄る、というよりも、寄ることが目的になってきた気がした。少なくともセトは明らかにそうだった。
ヴァルも何も言わなかった。来れば魚を焼いて、余れば持たせた。それだけだった。
罠の腕前は上がっていた。最初は小動物程度だったが、今では仕掛け方を工夫して、イノシシや兎も取れるようになっていた。肉が取れた日は、ノアとセトも一緒に食べた。セトが「おにく!おにく!」と飛び跳ね、ノアが「はしたない」と咎めながら自分もしっかり食べた。
セリアはそういう夕方が、だんだん好きになっていた。
---
二人が河に通うようになって、十日ほどが過ぎた朝。ヴァルが河に足を入れていた。
ただ立って、水の流れを見ている。罠を確認しているのか、それとも魚を狙っているのか。セリアはしばらく眺めてから、声をかけた。
「……お腹、減ってるんですか?」
「違う」
「じゃあ何をしてるんですか」
「見てる」
「何を」
「河を」
それ以上は何も言わなかった。セリアもそれ以上聞けなかった。
ノアとセトが水汲みに来たのは、その少し後だった。
セトがヴァルを見て「また河に入ってる!」と走り寄ってきた。ノアがその後ろをゆっくりついてくる。
「今日も魚取り?」とセトが聞いた。
「違う」
「じゃあなんで川入ってるの?」
「涼しいからだ」
嘘だとセリアは思ったが、口には出さなかった。ヴァルの嘘は大抵、何か理由がある。
ノアが桶に水を汲みながら、ちらりとヴァルを見た。
「ねえ」
「なんだ」
「村の雨、全然降らなくて。畑がもう限界で」ノアが少し言いにくそうに続けた。「女神様にずっとお祈りしてるんだけど、全然効かなくて」
「そうか」
「あなた神様なんでしょ。何かできないの」
ヴァルが河から足を出した。ノアを見た。
「村に案内しろ。雨を降らせてやる」
ノアが少し間を置いてから、口を開いた。
「……契約の神のくせに、今まで何もしていただけていない私めを、助けていただけるんですか?」
少しだけ、小馬鹿にしたような響きがあった。
「お前からは取らない」ヴァルがさっさと歩き出した。「対価は村からもらう。急ぐぞ」
「え、なんで急ぐの?」
「いいから来い」
セリアがヴァルの後を追いながら小声で耳打ちした。
「あの……ヴァル様、本当に大丈夫なんですか?神力はまだ——」
「任せておけ。足を動かせ」
セリアは不安なまま、口を閉じるしかなかった。
---
カルナ村は、河から二十分ほど歩いた先にあった。
土が乾いて白くなった畑。痩せた子供たち。笑い声の少ない集落。風が吹くたびに、乾いた土埃が道を舞った。
村の中ほどに、石造りの小さな教会があった。
扉が開け放たれていて、その前に村人たちが膝をついていた。十人、いや二十人はいる。老人も、子供を抱いた母親も、日焼けした男たちも、みな同じように手を組んで、目を閉じていた。
開いた扉の奥に、女神像が見えた。
両手を広げ、穏やかに微笑む石の像。祈る人々を見下ろして、何も言わずに立っている。
「女神様、どうか雨を……」
「どうか、この村に恵みを……」
かすれた声が、いくつも重なっていた。
セリアは足を止めた。胸の奥が、きゅっと縮んだ。この人たちは、ずっとこうして祈ってきたのだ。二ヶ月近く、雨の降らない空の下で。
ヴァルは女神像を一瞥した。
それだけだった。何も言わず、表情も変えず、すぐに視線を外した。
ただ、その目が一瞬だけ、ひどく冷たかったように、セリアには見えた。
---
ノアが村長を呼んできた。
白髪の老人だった。背は少し曲がっているが、目つきは鋭い。値踏みするように、ヴァルを上から下まで眺めた。セトが前に飛び出した。
「村長さん! この人ね、神様なの! 雨を降らせてくれるって!」
「俺はヴァルディオス。契約の神だ。この村に雨を降らせてやる」
祈っていた村人たちが顔を上げた。
誰かが「頭おかしいんじゃ……」と呟いた。別の誰かが「女神様の前で何を」と眉をひそめた。ノアが「だから言ったのに」という顔をした。セリアは(ですよね……)と思いながら、それでもヴァルの背中を信じるしかなかった。
「待て」
人垣の後ろから、声がした。
若い騎士だった。
十八か十九か、その程度の歳に見えた。短く刈った赤い髪。真面目そうな顔に、まっすぐな目。騎士服の腰に、使い込まれた剣を下げている。
騎士はヴァルの前に立ち、上から下まで眺めた。
「この村の駐屯騎士、レインだ。……あんた、どこから来た」
「森から」
「森に住んでいるのか」
「最近はな」
レインの眉が寄った。
「神を名乗る者が、干ばつに苦しむ村に現れる。……よくある手口だ。祈祷料を巻き上げて、雨が降らなければ姿を消す」
「よく知ってるな」
「女神教の騎士だからな。そういう輩は何人も見てきた」
レインの手が、剣の柄に軽くかかった。抜くつもりはない、という置き方だった。ただ、いつでも抜ける。
セリアは息を呑んだ。
ヴァルは表情一つ変えなかった。
「詐欺かどうかは、雨が降ればわかる」
「いつ降る」
「近いうちだ」
「近いうち、か」レインの目が細くなった。「便利な言葉だな。三日後か、十日後か、一月後か。その間に祈祷料だけ持って消える。何度も聞いた話だ」
「なら、降るまで毎日この村に顔を出してやる。逃げるかどうか、見張っていればいい」
「信用できない」
「信用しろとは言ってない」
空気が張り詰めた。レインは柄から手を離さない。ヴァルは一歩も引かない。村人たちが息を潜めて、二人を見比べていた。
「レイン様」
落ち着いた声だった。村長が、杖をついて二人の間に入った。
「お気持ちはありがたい。ですが、話を聞くだけなら、村は何も損をしませんな」
村長はレインではなく、ヴァルを見ていた。
「このままでは、どのみち畑は全滅です。女神様にお祈りして二ヶ月、一滴も降らなかった。詐欺師か神様かは存じませんが、聞くだけ聞いて、損な話なら断ればよろしい」
それから、ようやくレインに向き直った。
「村を守っていただいているのは、重々承知しております。ですが、村の畑のことを決めるのは、この村でございます」
穏やかな口調だった。だが、譲る気のない声だった。
レインは長いあいだ黙っていた。
村長を見て、祈りの途中で顔を上げた村人たちを見て、それからヴァルを見た。
やがて、柄から手を離した。
「……村長がそう言うなら、話は聞く。だが、村人から何かを騙し取るつもりなら、俺が許さない」
「騙し取る気はない」ヴァルが村長に向き直った。「取引の話をしよう」
---
「取引、と申されますと」
村長が、目を細めた。
「雨を降らせてやる。その代わり、対価をもらう」
村人たちがざわついた。
「対価って……」
「やっぱり金目当てじゃないか」
「この村に、出せるものなんて——」
ヴァルは騒ぎを気にも留めず、乾ききった畑を指さした。
「この村の畑の、二割をもらう。畑が実ってからでいい」
ざわめきが、一段と大きくなった。
「二割!?」
「そんな、冗談じゃない!」
「ただでさえ食うものがないのに——」
村長の眉が、ぴくりと動いた。だが、顔色は変えなかった。セリアの方が、よほど顔に出ていた。思わずヴァルを見る。
(この人、本気で言ってる……?)
干ばつで飢えかけている村から、二割。神様の言うことではない。どう考えても、悪徳商人の言うことだった。
「足元を見るな」
レインが一歩前に出た。
「この村がどういう状況か、見ればわかるだろう。干ばつの村から二割も取る気か」
「なら、いくらならいい」
「……なに?」
「いくらなら払えるかと聞いてる」
ヴァルは空を見上げた。白っぽく曇った空だった。
「早く決めろ。時間がない」
「時間がないって、なにを急いで——」
「一割」
ヴァルが言った。
「お前の顔を立てて、一割にしてやる。それ以上は下げない」
レインが口を開きかけて、閉じた。一割。二割から見れば、半分だ。村長は顎に手を当て、黙って何かを勘定していた。
村人たちが顔を見合わせた。小声のやりとりが、あちこちで交わされる。どうせ雨が降らなければ、畑は全部だめになる。実ってからの一割なら、なんとかなる。誰もが、そういう顔をしていた。
セリアも、ほっと胸を撫で下ろした。実ってからの一割なら、村も払える。
「念のため、確かめておきますが」
村長が、ゆっくりと口を開いた。
「雨が降らねば、一切お支払いはしない。それでよろしいですな」
「ああ」
「それと、先ほど、降るまで毎日この村に顔を出すと仰った。それも約束として伺っておきます」
ヴァルが、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「抜け目ないな、爺さん」
「この歳まで村長をやっておりますのでな」
村長は表情を変えずに言った。それから、村人たちを一度見渡して、ヴァルに向き直った。
「……畑の一割。お受けいたしましょう」
ヴァルはそれ以上、何も言わなかった。
「決まりだ」
ヴァルはそれだけ言って、くるりと背を向けた。
「材料を取ってくる。畑の前で待ってろ」
---
ヴァルは一度森に戻り、以前から少しずつ集めていた獣の骨を取り出した。石で砕いて骨粉にする。次に村の外れの生ゴミの山から、腐りかけの腐葉土を集めた。それを混ぜ合わせ、大きな袋に詰める。
畑の前に戻ったヴァルは、袋を担ぎ上げた。
村人たちが遠巻きに見ている。レインも腕を組んで、少し離れたところに立っていた。
ヴァルは、思いきり、ばらまいた。
「天よ! 大地よ!」
骨粉まじりの腐葉土が宙を舞った。
「この地に慈雨を与えたまえ——!」
村人が唖然としていた。ノアが目を細めた。レインの眉間の皺が深くなった。セリアは(え、これが雨乞い……?)と固まっていた。
ヴァルは何袋も用意していた。畑の端から端まで、大げさに腕を振って、叫びながら撒き続けた。
「雨よ来い! 降れ降れ! この地に恵みを——!」
村人たちがざわめいた。信じているのか、引いているのか、判断がつかない顔をしていた。
一通り撒き終えたヴァルが、肩で息をした。
「……これで降るだろ。後は待っていろ」
くるりと踵を返して、森の方へ歩き出した。
「え、帰るんですか!?」とセリアが慌てて後を追った。
「待つだけなら向こうでいい」
「でもまだ何も——」
「あの……神様? どちらへ」と村長が呼び止めた。
「帰る」
「ま、待ってください! 雨は——」
「降る」
「で、でもまだ空は——」
「降る、と言った」
ヴァルは振り返らなかった。村人たちが顔を見合わせた。不安と困惑が入り混じった表情だった。老人が「本当に降るのか……」と呟いた。子供が母親の袖を引っ張った。
レインが、静かに剣の柄に手を置いた。近いうちに、と言った男の背中を、黙って見ていた。
セリアも正直、不安だった。神力を感じない。何も起きていない。このまま帰っていいのか。
「ヴァル様……」
「黙ってついてこい」
その瞬間、ぽつ、と一粒落ちた。
ヴァルの頬に。
足が止まった。
ぽつぽつ、と続いた。
そして——どっと、雨が降り始めた。
---
村人たちが歓声を上げた。
子供が両手を広げて走り回った。雨粒が頬を叩いて、それでも笑っていた。老人が震える手で空に手を伸ばして、そのまま泣いていた。母親が子供を抱きしめながら、空を見上げていた。
畑に雨が落ちた。乾いて白くなっていた土が、少しずつ色を取り戻していく。
「神様が……神様が雨を降らせてくださった……!」
「ヴァルディオス様! ありがとうございます! ありがとうございます!」
村長は空を仰いだ。顔に落ちる雨を、目を閉じて受けていた。それから、ヴァルに向かって深々と頭を下げた。長いあいだ、顔を上げなかった。
教会の前で祈っていた人たちも、扉の奥の女神像には背を向けて、畑の方を——ヴァルの方を、見ていた。
レインは、雨に打たれながら立ち尽くしていた。剣の柄から、いつの間にか手が離れていた。空を見上げ、それからヴァルの背中を見た。何かを言いかけて、結局、何も言わなかった。
ヴァルは振り返らなかった。雨に打たれながら、少しだけ空を見上げた。
セリアはその場に立ち尽くしていた。
ほっとした。神力が戻ったと思った。でもそれより先に——胸の奥が、じわりと熱くなった。
子供の笑い声。老人の涙。下げたままの村長の頭。
ヴァルは何も言わなかった。振り返りもしなかった。ただ雨の中に立っていた。でもセリアには——その背中が、さっきまでとは少し違って見えた。
(この人は……)
言葉にならなかった。
ノアが近づいてきた。びしょ濡れで、でもその目は——さっきまでとは少し違った。
「……本当に降った」
「言っただろ」
「……信じていいの、あなたのこと」
「信じたければ信じろ。信じたくなければ信じるな」ヴァルが歩き出した。「ただ、俺はこの土が三日後にどうなるか、ちゃんと知ってる。それだけは本当だ」
ノアは何も言わなかった。でも、森へ帰るヴァルの背中を、今日は少しだけ近い距離で見送っていた。
---
夜、拠点の火を囲みながら、セリアはヴァルに言った。
「神力、戻ってたんですね。よかったです」
「戻ってない」
「……え?」
ヴァルが焼いた肉をかじりながら、ぼそりと言った。
「今朝、河の水位が上がってた。この河は山から流れてくる。山の地形は風がぶつかって上昇気流ができやすい。山頂で雨が降れば、数時間後に下流の水位が上がる。ここ数日、少しずつ上がってた。今朝は一段と高かった。曇ってもいた。だから二、三日のうちには降ると読んだ。早ければ、今日だ」
セリアは固まった。
「……朝、河に足を入れてたのは」
「水位の確認だ」
「お腹が減ってるわけでも、涼しいからでもなかった……」
「当たり前だろ」
「じゃあ、急いでたのは——」
「今日降る可能性もあった。降る前に話をつけないと、取引にならないだろ」
「じゃあ、骨粉と腐葉土は——」
「土を良くする。雨が降ったとき畑が水を吸いやすくなる。三日後にはわかる」
「雨乞いみたいにやってたのは——」
「村人が信じやすいだろ」ヴァルが火を見た。「派手にやった方が記憶に残る」
セリアは言葉を失った。
「……全部計算だったんですか」
「半分は。今日降ったのはたまたまだ。本当は二、三日、村に通うつもりだった」
「たまたま!?」
「でも降るのは読んでた。早いか遅いかだけだ」
「……もしかして、二割も」
「最初から一割のつもりだった」
ヴァルは平然と言った。
「二割と言っておけば、一割は安く聞こえる。あの騎士が値切ってくれて助かった」
「……最低です」
「そうか」
「村の人たちが純粋に信じてたのに」
「だから俺は嘘はついてない」ヴァルが火を見た。「雨は降ると言った。降った。一割と言った。どこに嘘がある」
セリアは反論できなかった。
しばらく沈黙が続いた後、ヴァルがぼそりと付け加えた。
「それにしても、畑が回復しないと困る」
「……なぜですか」
「女は肉付きがいいに限る。ぼんきゅぼんだ。畑が死んだら村の娘どもが痩せる」
セリアが目を細めた。
「……今の話どこに繋がったんですか」
「村に美人がいたろ。ちゃんと食わせないといい育ち方をしない」
「最低です」
「さっきも言った」
「二回言いたかっただけです」
ヴァルが鼻で笑った。
セリアはため息をついた。
(こいつマジクソだ)
でも、なぜかその言葉が、以前ほどの重みを持たなかった。
---
*次話「友達になりましょう」に続く*
お読みいただきありがとうございます。次話は明日19:10に投稿します。




