第二話「世界を救え(やだ)」
天使長ミカエルの執務室は、天界の中でも最も高い場所にある。
白い石造りの広い部屋。高窓から差し込む光が床に長く伸びて、その奥に執務机が置かれていた。壁には各下界への異界門が並び、それぞれに異なる世界の景色が薄く映し出されている。
セリアはヴァルの三歩後ろを歩きながら、内心で緊張していた。
ミカエルのことは、天使学校の頃から知っている。天使長は時折学校を訪れては、講義の合間に生徒たちへ気さくに声をかけていた。誰に対しても分け隔てなく、穏やかで、優しい。生徒の間で一番人気があったのは、間違いなくミカエルだった。
落ちこぼれかけて中庭の隅でうつむいていたセリアにも、ミカエルは足を止めて話しかけてくれた。
『焦らなくていい。君は、ちゃんと前に進んでいますよ』
その一言を、セリアは今でも覚えている。あの日から、ミカエルはセリアにとって、ずっと憧れの人だった。
だからこそ、緊張する。
学校で話しかけてもらうのと、上司と部下として正式に呼び出されるのとでは、まるで違う。しかも今日は、あのヴァルの付き人として、だ。
(変なことを言わないように。ヴァル様が変なことを言っても、私は絶対に、変なことを言わないように……)
扉が開く。
天使長が振り返り、静かに微笑んだ。その目が一瞬セリアに向けられ、ほんの少しだけ柔らかくなった。セリアの背筋が、勝手に伸びた。
「ヴァルディオス様。お久しぶりですね。お変わりなく」
「久しぶり。で、用件は?」
セリアは固まった。
タメ口だった。天界最高位の天使長に向かって、ヴァルは当然のようにタメ口を使っていた。
(ちょ……っ、ヴァル様! 天使長に対してその言葉遣いは——)
小声で注意しようと口を開いたセリアに、天使長が穏やかに首を振った。
「構いませんよ、セリア。この方はずっとこういう方です」
「で、も——」
「昔からですので。……それより、あなたこそ肩の力を抜きなさい。顔が真っ白ですよ」
「は、はいっ」
声が裏返った。天使長が小さく笑う。セリアは耳まで熱くなった。
天使長は特に気にした様子もなく、執務机の前に立った。ヴァルはというと、すでに部屋の隅にある椅子を引き寄せて、足を組んで腰かけていた。
「要件を言えよ。時間の無駄だ」
「そうですね」と天使長は静かに言って、一枚の書類を手に取った。「まず、いくつか確認させてください」
「なんだ」
「先月、女神ヴィーナス様より覗き見のクレームが入っています」
セリアはヴァルを見た。ヴァルは視線を逸らした。
「……風が強かった」
「女神様の私室の窓に、外側から張り付いていたと報告がありますが」
「風で飛ばされた」
「次に」天使長は書類をめくった。「天界第三競技場にて、人間界のスポーツを模した遊戯を行い、施設を破損した件。被害総額は——」
「野球は楽しいぞ。ルールが合理的だ」
「ホームランと称して、競技場の壁を三枚ぶち抜いています」
「力加減を間違えた」
「続いて」また書類がめくられる。「神域図書館にて所蔵の漫画を参照し、記載の技を神域で試みた結果、柱を七本と床を二フロア分破壊した件」
「あれは理論上は再現できると思った」
「理論と実践は違いますね」
「あと」天使長の声のトーンは変わらなかった。淡々と、しかし確実に、「本来の職務をここ三百年ほど一切こなしていない件」
「……若手に譲ってだったんだ」
沈黙が落ちた。
セリアは目眩がしそうだった。三百年。三百年も働いていなかったのか、この神は。セリアが生まれるより、ずっと前からだ。
「以上の件について、今回すべて不問といたします」
「は?」
ヴァルが初めて眉を動かした。
「条件があります」天使長は書類を机に置いた。「ある下界の世界を、救っていただきたい」
「対価は?」
即答だった。セリアは耳を疑った。
天使長は表情ひとつ変えなかった。
「ですから、今申し上げた件をすべて不問にいたします」
「それは対価じゃない」
ヴァルは椅子の背にもたれたまま言った。
「マイナスがゼロに戻るだけだ。俺が得るものは何もない」
「下界を救うのは、神の務めです。本来、対価を求めるものではありません」
「なら、その務めとやらが大好きな神にやらせろ。無償で働く趣味はない」
「ヴァル様!」
セリアは思わず声を上げていた。
「せ、世界を救うんですよ!? 困っている人たちがいるんですよ!? それに対価って……!」
「困ってるのは向こうの都合だ」
ヴァルは立ち上がり、外套を肩に引っかけた。
「タダ働きはしない。帰る」
扉へ向かうヴァルの背に、天使長の声が追いかけた。
「女神ヴィーナス様との合コンをセッティングしましょう」
ヴァルの足が止まった。
「……参加人数は」
「ヴィーナス様のご友人も含め、五名ほど」
「全員美人か」
「神格ですので」
ヴァルはゆっくりと振り返った。その顔には、さっきまでとは別の光が宿っていた。
「……それが、対価か」
「はい」
「契約の神の前で、二言はないな」
「ございません」
天使長が静かに微笑んだ。
「……お主も悪やのう」
「お褒めにあずかり光栄です」
ヴァルは椅子に戻り、どかりと腰を下ろした。
「契約成立だ。話を聞こう」
セリアは呆然とした。
世界の命運が、合コンで売れた。
(あーこいつ、ほんとうにクズだ……)
頭を抱えるセリアの横で、天使長だけが、どこか満足そうに目を細めていた。
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異界門へ向かう廊下を歩きながら、天使長はセリアに向かって静かに説明を始めた。ヴァルが「知ってる」「知ってる」と手を振り続けたが、天使長は意に介さなかった。
「セリア。付き人になった以上、神の仕事についても知っておきなさい」
「はい」
「神の務めは、大きく分けて三つあります」
天使長は歩きながら、指を一本立てた。
「一つ目は、天界そのものの維持。下界の創造や、天界の理の管理です。たとえば、あらゆる下界を生み出しておられる創造神ガイア様。こうした務めは特別なもので、関わる神はごく僅かです」
二本目の指が立つ。
「二つ目は、邪神の討伐。天界を追放された神々を討つ務めです。もっとも、邪神は滅多に姿を現しません。行方を追うのは、主に天使の仕事になっています」
セリアの脳裏に、オルレアの背中がよぎった。
「そして三つ目が、下界の救済」
三本目の指が立った。
「滅びに瀕した世界を救い、その世界の人々から信仰を得る。集まった信仰は神力となり、神々と天界を支える糧になります。神の務めのほとんどは、実質これです」
「三つの務めで、どれだけのことを成し遂げたか。それで神の階級が決まります」
「階級……」
「下位(C)、中位(B)、上位(A)。そしてその上に、最高位(S)。……もっとも、天界の維持に携われる神は限られ、邪神はそうそう現れません。結局のところ、上の階級にいる神のほとんどは、下界を数多く救ってきた神々です」
天使長は、前を歩くヴァルの背中にちらりと目をやった。
「どれだけの世界を救ってきたか。それが、そのまま神の格になるのです」
セリアも、その背中を見た。
最高位。つまり、この神はそれだけの世界を救ってきたということになる。部屋に積まれた「初回限定版」の箱の山が頭に浮かび、どうにも結びつかなかった。
「下界にも格付けがあります。滅びまでの猶予、敵の強さ、文明の状態。それらを踏まえて、救済の難易度が定められています。難しい世界ほど、救ったときの評価も大きい」
「今回の世界は……」
「高難度です」
天使長はあっさりと言った。
「要するにハズレってことだろ」
前を歩くヴァルが、振り返りもせずに言った。
「評価が大きい、と申し上げたのです」
「同じ意味だ」
天使長は否定しなかった。
「では、下界での基本ルールを説明します。まず第一に、直接手を出すことは推奨されません。特に、知性ある生物の命を奪うことは禁じられています」
「はい」
「第二に、世界を救うとは、その世界固有のルールを達成することを指します。戦争の終結、植民地の独立、そういったものも含まれます。今回の場合は、魔王の討伐ですね」
「魔王を、ですか」
「ただし」と天使長は一拍置いた。「魔王は勇者が倒さなければなりません。それがこの世界のルールです」
「勇者……」
「第三に、神の力を行使するには信仰を集め、神力に変換する必要があります。信者なき神は、ほぼ無力です」
セリアが頷きながらメモを取っていると、前を歩くヴァルがぼそりと言った。
「ざっとそんなもんだ。あとは現地で考える」
担当世界の異界門の前に着いた。壁一面に広がる光の揺らめき。その向こうに、見知らぬ世界の空が映っていた。青い空。白い雲。遠くに城壁を持つ都市と、広大な農地。絵に描いたような、RPGの世界だった。
「では」と天使長が言った。「よろしくお願いします」
天使長は一礼して、廊下を戻っていった。
セリアは門の向こうの景色を見つめ、小さく息を吸った。いよいよ下界だ。
ところが、ヴァルは門の前から動かなかった。
「……降りないんですか?」
「降りたら最後、文句言って帰れなくなる」
ヴァルは異界門の前に椅子を持ってきて、腰かけた。腕を組み、門の向こうの世界をただ眺める。
「ここから見てればいい。どうせ勇者が育つまで時間がかかる」
「勇者召喚、するんですか?」
「もうした」
「え、いつ——」
「さっき。門の前で」
セリアが異界門を覗き込んだが、何も起きている様子はなかった。
「……何も変わっていませんけど」
「即効性がないだけだ。しばらく待てば育つ」
「信仰がないと神力が——」
「細かいことを言うな」
どうにかならなかった。
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一年が過ぎた。
魔王軍が北の小村を制圧したという景色が、異界門に映し出された。
五年が過ぎた。
王国軍が各地で敗北し、難民が街道に溢れていた。
十年が過ぎた。
状況はどんどん悪くなる。
十五年が過ぎた。
魔王軍の旗が、いくつかの街の城壁に翻った。
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「大丈夫なんですか?」
セリアが聞いた。ヴァルは異界門の向こうを眺めながら、しばらく黙っていた。
「帰る」
「えっ」
「やめた。帰る」
「せ、世界が滅びますよ!?」
「滅びはしない」ヴァルは椅子の背に体を預けた。「ただ、魔王軍に支配される。まあ、そういう世界になるってだけだ」
「そういう世界って——!」
「聞けよ」ヴァルが門の向こうを見たまま言った。「そもそも、なんで俺に頼んだと思う?」
セリアは口を閉じた。
「……十五年、ずっと見てた。この世界にはすでにいくつか宗教がある。それが全部、俺の前に担当して失敗した神のものだってことも、今はわかる。要は厄介事を押し付けられたんだよ、俺は」
ヴァルが異界門から目を離し、セリアを見た。
「しかもここまで魔王軍が強いなら、正攻法じゃ勝てない。いっそ世界が一度滅んで、最後の希望として神が勇者に転生して戦った方が早い場合もある」
セリアが即座に言った。
「じゃあヴァル様がそれをやれば——」
「はー」ヴァルが盛大にため息をついた。「お前ほんとに頭悪いな」
「な——っ」
「俺は戦闘向きじゃない。そういう役は戦闘特化の神にやらせろ。アレスとかオーディンとかいるだろ。あいつらの方がよっぽど向いてる」
セリアは言い返せなかった。
ヴァルが立ち上がり、異界門を見た。その横顔は、いつもと違って少しだけ遠い目をしていた。
「……まあ、もう少しだけ待ってみるか」
「え?」
「何でもない。帰るぞ」
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*次話「腹黒天使」に続く*
お読みいただきありがとうございます!
世界の危機より合コン。それがヴァルディオスという神です。
次話「腹黒天使」は本日19:10に投稿します。
ついに、あの方が本性を見せます。
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