第十三話「アノとアーサー」
昔々。世界が、魔族に呑まれようとしていた頃の話である。
人の国は、ひとつ、またひとつと闇に沈んだ。剣は折れ、砦は焼け、生き残った者たちは追われるように東へ西へと逃げ惑った。やがて光の届く地は、王都ただひとつを残すのみとなった。
城壁の外には、見渡すかぎりの魔の軍勢。
もはや、剣も尽きた。魔法も尽きた。誇りある騎士たちは次々に倒れ、最後の希望さえ、夜ごとに細っていく。
人々にできることは、もう、ひとつしか残されていなかった。
——祈ることだ。
膝を折り、手を組み、声をからして。母は子を抱いて祈り、老いた者は地に額をつけて祈った。すがるように。届けと願って。来る日も、来る日も。
その祈りが、ついに天に届いた。
空が、裂けた。
厚く垂れこめた雲が左右に押し開かれ、その裂け目から、一条の光が地上へと貫いた。眩いその柱の中心に——白い翼が、音もなく広がる。
光が地に触れたとき、そこにひとりの青年が立っていた。
燃えるような赤い髪。その身には、降り注いだ光がまだ尾を引いている。瞳には、恐れというものがいっさいなかった。
青年は、静かに名を告げた。
——アーサー、と。
女神に召喚されし、勇者であった。
その剣が、振るわれる。
ひとたび閃けば、魔の兵は塵のごとく散った。立ちはだかる者があれば、ただ前へ。倒れぬ者があれば、ただ斬る。屍を越え、血の河を越え、アーサーは一歩も退かなかった。
魔王が誇った四天王さえ、彼を阻むことはできなかった。
四つの巨影が同時に襲いかかった、その刹那。
剣の一閃が、すべてを薙ぎ払った。
そして勇者は、ただひとり、玉座の間へと踏み入った。
魔王は、何度倒されても蘇る。幾千の軍勢が討ち取っても、いつかまた玉座に戻ってくる。その命を本当に終わらせられるのは、勇者の剣だけだった。
アーサーは振り返らなかった。助けも、軍も、奇跡さえも求めなかった。
一対一。
剣と、剣。
——魔王は、討たれた。
今度こそ、二度と蘇ることはなかった。
長きにわたる夜は、明けた。
アーサーは、この地に残ることを選んだ。みずから王となり、焼け野原となった王都を、その手で建て直した。
石を積み、人を集め、傷ついた者を立ち上がらせて。やがて街には灯がともり、人々の顔に、ふたたび笑みが戻った。
勇者が王となった国で、人々は長く、穏やかに暮らした。
めでたし、めでたし。
——そうして、みんな、しあわせに暮らしましたとさ。
「……おしまい」
ノアは、紙芝居の最後の一枚を、ぱたんと閉じた。
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教会跡地は、今は子供たちの遊び場になっている。
焼け落ちた梁は片づけられ、崩れた壁は子供の背丈ほどに均されて、ちょうど座るのにいい高さになっていた。たまにノアがこうして紙芝居をやり、レインが文字や数を教える。寺子屋のような、そんな場所だ。
ノアは、戦闘の場面を語るのは、正直まだ慣れない。それでも今日は、自分でも驚くほど熱が入ってしまった気がする。
語り終えて、子供たちを見る。
誰も、何も言わなかった。
感想すら出てこないのか、子供たちはただ黙ってノアを見つめている。その視線が、なんだかむずがゆい。
「お、おわりおわり」
ノアは照れ隠しに、適当に手を振った。
「えー!」
「もう終わり?」
「つづきは!?」
子供たちが口々に言う。ノアは少し困って笑った。
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その様子を、セリアは少し離れたところから眺めていた。
笑ってしまう。あの紙芝居を、ノアが何日もかけて描いていたのを知っている。色のことで悩んで、夜遅くまで筆を握っていたのも。
ヴァルも、珍しく黙って聞いていた。腕を組んで、壁にもたれて。退屈そうな顔をしているくせに、最後まで動かなかった。
レインも、子供たちの輪から少し離れた場所に立って、聞いていた。剣の柄に手を添えたまま、まるで見張りでもするように。けれど、その横顔はどこか柔らかかった。
「ねえねえ」
子供たちの輪の中で、セトが得意げに胸を張った。
「ノア姉ちゃん、いつももっと長く話すよ。アーサーはこれからお姫さまと結婚するんだって。アーサーは顔もかっこよくて、強くて、背も高いんだって!」
「えー、そうなの?」
周りの子供がセトに群がる。
「お姫さまの名前はねー、えーと、たしか——」
「ちょっ、セト、待って」
ノアの顔が、さっと変わった。慌てて手を伸ばす。
けれど、セトは聞いちゃいなかった。
「あのお姫さま、名前は『アノ』っていうんだよ!」
——アノ。
ノアは、口を開けたまま固まった。
じわじわと、顔が赤くなっていく。耳まで。
子供たちは「へー、そうなんだ」くらいの反応で、すぐ別の話に移っていった。彼らにとっては、ただの物語の姫の名前だ。
けれど。
大人たちは、違った。
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セリアは、思わず口元を押さえた。
(アノ……)
ノア。アノ。文字を入れ替えただけだ。
アーサーと結ばれる姫に、あの子はこっそり自分の名前を忍ばせていた。子供たちには気づかれない、と踏んで。
ノアが、ゆっくりと振り返った。
大人が三人、ここにいる。それを、彼女はちゃんと分かっている。
まずレインを見た。
レインは、表情を隠さなかった。何かを言うでもなく、ただ静かに、ノアの目を受け止めた。それがかえって、いたたまれない。
次にセリア。
セリアは、にっこりと笑ってやった。優しく。
その優しさが、ノアには一番こたえたらしい。顔がさらに赤くなった。
そして、ヴァル。
ヴァルは、ニヤニヤしていた。心の底から面白がっている、あの顔だ。
「ガキだなあ」
ノアの頭の中で、ぷちん、と何かが切れる音がした。
——セリアにも、聞こえた気がした。
「ヴァルーーーッ!!」
顔を真っ赤にしたまま、ノアがヴァルに突進する。ヴァルは「うおっ」と声を上げて、けらけら笑いながら逃げ出した。
子供たちは、それを見て大喜びだ。「いけー!」「こっちこっち!」と、追いかけるノアのために道を空けてやっている。
セリアは、その光景を見て、また笑った。
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不思議なものだ、とセリアは思う。
ほんの五日ほど前、この場所は燃えていた。盗賊に襲われ、教会は焼け落ち、人が死んだ。
今だって、傷は残っている。すぐそこには、火に焼かれて黒く焦げたままの柱が、片づけきれずに転がっている。村の半分は、まだ普請の途中だ。屋根のない家がいくつもある。倒れた女神像は、結局そのまま、台座から下ろされて隅に置かれていた。
失ったものは、戻らない。
それでも、村は前に進んでいた。
焼けた梁は子供の腰かけになり、跡地は遊び場になった。畑は耕し直され、新しい家の柱が立ちはじめている。ノアは紙芝居を描き、レインは文字を教え、子供たちは笑い声を上げて、神様を追いかけている。
誰かが救ってくれたから、ではない。
みんなが、自分の手で、少しずつ建て直しているのだ。
(……こいつマジクソだと思っていたのに)
神様を追いかけ回すノアと、それを笑い飛ばすヴァルを見ながら、セリアはふと、そう思った。
いつから、こんな光景を悪くないと思うようになったのだろう。
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そんな中、村長が小走りでやってきた。
「ヴァル様、レイン様。それに、セリア様も」
息を整えながら、頭を下げる。
「話し合いの時間です。村のこれからについて、皆で詰めたいと思いまして」
ヴァルは、ノアに追い回されていた足を止めた。
「ああ、もうそんな時間か」
「わかりました」
レインが応じる。セリアも頷いた。
「行きましょう」
三人が、村長について歩き出す。
残されたノアは、まだ息を切らしながら、セトを睨んでいた。
「セト……あんたねえ……」
「えへへ」
セトは悪びれもせず、にこにこ笑っている。ノアは、もう怒る気力も尽きたのか、がっくりと肩を落とした。
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話し合いは、村長の家に集まって行われた。
土間に近い広間。村長と、村の主だった大人が数人。それから、ヴァル、レイン、セリア。卓の端には、すり切れた女神教の祭服を着た初老の男——神官のハロルドが座っている。
卓の上には、村の見取り図らしき紙が広げられている。焼けた区画、まだ無事な区画、井戸の位置。そういったものが、拙い線で描き込まれていた。
「さて」
村長が、皆を見渡して切り出した。
「命が助かっただけでは、人は幸せにはならない。ここからだ——と、ヴァル様はおっしゃいました。あの言葉を、ずっと考えていました。これから、この村をどうしていくのか。それを、皆で決めたいと思います」
ヴァルは壁にもたれて、腕を組んでいた。
——次は、お前らだけでやれ。
あの朝そう言った神は、今日は卓につこうともしない。決めるのは村だ、という顔をしていた。
最初に身を乗り出したのは、ハロルドだった。
「ならば、まず教会を建て直すべきです」
張りのある声だった。
「村の者が立ち直るには、心の拠り所がいる。女神様の御前で祈る場所を、一日も早く取り戻すべきだ。それなくして、復興もありません」
村長は、すぐには頷かなかった。
「ハロルドさん。お気持ちはわかります。ですが——祈る場所より先に、雨をしのぐ屋根ではありませんか」
「屋根とて、心が折れていては建ちません」
「その心を、これまで支えてくれたのは……」
村長が言いかけて、言葉を呑んだ。あの夜、村を守ったのは女神ではなかった。それを、この場の誰もが知っている。口にこそ出さないが。
広間に、気まずい沈黙が落ちた。
「——その話は、後だ」
ヴァルが、ようやく口を開いた。
全員が、神を見た。
「教会を建てるかどうかは、暮らしの目処が立ってから決めればいい。先に片づけることがある」
「先に、とは」
「もし、また襲われたらどうするか。そこからだろう」
村長が、はっと表情を引き締めた。ハロルドは不服そうに口をつぐむ。ヴァルは、いったん皆の頭を冷やすように、話を引き戻した。
「考えるべきは三つだ。一、また襲われやしないか。二、襲われて、その後の暮らしが立つか。衣食住のことだ。三、人の気持ちが、参ってしまわないか」
指を三本立てて、ヴァルは無造作に言った。
「一つずつ潰せ。お前らで」
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「一つめは、私から」
レインが口を開いた。
「結論から言えば、当面その心配はありません。魔族が人族の領土に入り込むのは、本来きわめて難しい。境には結界に近い守りがあり、力ある個体ほど近づけない。今回は——異例だったのです」
村の者たちが、顔を見合わせた。
「異例、というと」
「いくつもの偶然が重なった結果です。同じことが、すぐにまた起きるとは考えにくい。少なくとも、明日明後日に魔族の群れが押し寄せる、という話ではありません」
レインの言葉には、迷いがなかった。女神教の聖騎士である彼が言うのなら、と、村人たちの肩から少し力が抜ける。
「では、二つめ」
村長が引き取った。
「これは、むしろ明るい話です。今回の盗賊は——ヴァル様が見抜かれた通り、子供をさらうのが狙いでした。家はいくつも焼かれましたが、蓄えにはほとんど手をつけられていません」
村長は、卓の見取り図を指でなぞった。
「それどころか、盗賊どもの荷の中に、何人もの子供がいました。よその村でさらわれた子らでしょう。ひとまず引き取って、この村で育てるつもりです。十をいくつか越えた、働ける年頃の子も多い。手が増えます」
「それに」と、村長は声を少し弾ませた。
「荷には、食料もたくさん積まれていました。さらった子らを食わせるためでしょう。これも、ありがたくいただきます。当面、食べる物には困りません」
広間に、ようやく安堵の気配が広がった。
村長は、そこで一度言葉を切った。
「……あの夜に亡くなった者たちの弔いは、ハロルドさんが支度を進めてくれています」
居並ぶ大人たちが、黙って頷いた。
しばし、広間に沈黙が落ちた。
「つまり」やがて村長が顔を上げた。「食べる物は足りる。足りないのは、住むところです。焼けた家に、新しく増えた子らのぶんも建てなければなりません」
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「ならば、なおさら教会です」
ハロルドが、再び身を乗り出した。
「子らの心を導く場が要る。早く教会を建て、皆に祈らせるべきだ。三つめの——人の心の問題とやらも、信仰でこそ癒える」
だが、村人たちは、誰も頷かなかった。
それどころか、何人かが、気まずそうに目を伏せた。
——みな、見ていたのだ。
あの夜、盗賊から逃げて教会に駆け込み、女神像の裏から地下のクリプトへ降りたとき。そこに、何が積まれていたか。
大量の食料。そして、酒。樽がいくつも。
長年、村の者が女神へ捧げてきた布施が、祈る者の腹を満たすこともなく、ただ地下に眠っていた。飢えた子供たちが痩せていく傍らで。
誰も口にはしない。けれど、その記憶が、ハロルドの「祈らせるべきだ」という言葉を、白々しく響かせていた。
「——人の心の話なら」
ヴァルが、けだるげに割って入った。
「皆が使えて、皆が得をするものがいい。祈りの場は、信心の篤い大人しか使わんだろう。だが、この村はこれから、子供を大勢抱える。なら、こしらえるなら万人受けするもんだ。役に立って、日々の疲れが取れて——できれば、体を清潔に保てるものがいい」
そこで、ヴァルはふいに視線を投げた。
「レイン。お前、王都でいろいろ見てきただろう。何かいいのはないか」
「……っ」
いきなり話を振られて、レインが目を見開いた。
全員の視線が、自分に集まる。聖騎士として常に毅然としてきた彼が、一瞬、言葉に詰まった。けれど、ここで黙っているわけにもいかない。村人たちが、真剣に答えを待っている。
レインは、こめかみに指を当てて、しばし考えた。
そして、慎重に口を開いた。
「……大衆浴場、というのは、どうでしょう」
「ほう」
「王都には、いくつもあります。湯を張った大きな浴場を、皆で使う。身分を問わず人が集まり、なかなかの人気です。体を清められ、疲れも取れる。冬は、暖を取る場にもなります」
「いいじゃないか」
ヴァルが、にやりとした。
「衛生にもいい。病が減れば、傷の治りも早い。子供から年寄りまで、誰でも使える。暮らしそのものが、確かに良くなる」
村人たちが、ざわめいた。今度は、明るいざわめきだった。
「風呂か……いいなあ」
「子供も入れるんだろう?」
「冬に暖かいってのは、ありがたい」
反対する声は、なかった。
——ただ一人、ハロルドを除いて。
老神官は、苦々しい顔で、唇を引き結んでいた。
---
「ああ、そうだ。一つ、思い出した」
話がまとまりかけた、その頃合いだった。
ヴァルが、何気ない調子で切り出した。
「雨乞いの報酬を、まだ受け取っていなかったな」
(——このタイミングで言うのか)
セリアは、内心でひやりとした。
その一言で、場の空気が、すっと変わった。
——雨乞い。
乾ききった畑。痩せた子供たち。女神に祈っても降らなかった雨。あの日、村を訪れたこの男が、土に何かを撒き、そして本当に、雨を降らせてみせた。
半信半疑だった村人たちが、泥に膝をついて喜んだ、あの日のこと。
みな、すっかり忘れていた。
復興のことで頭がいっぱいで、対価のことなど、誰も覚えていなかったのだ。
「もちろん、覚えています」
すかさず、村長が背筋を伸ばした。忘れていた、とは口が裂けても言えない。
「収穫の一割、でしたね。今年の実りから、きちんとお納めします」
ところが。
「——いや。俺の認識とは、違うな」
ヴァルが、首を傾げた。
「え?」
「俺は、収穫とは言っていない。畑の一割をもらう、と言った」
「……ええ。ですから、畑の一割ぶんの収穫を——」
「土地の話だ。畑の一割を、俺の土地としてもらう」
しん、と広間が静まった。
村人たちが、ぽかんと口を開ける。
村長だけは、違った。目がわずかに細くなる。驚きは一瞬で、すぐに何かを測る顔になっていた。
セリアは、はっとした。
——畑の一割。
あのとき、誰も「収穫」とは言っていなかった。
ヴァルは「畑の二割をもらう。畑が実ってからでいい」と言い、それを一割に下げただけだ。村長が答えたのも「畑の一割」。
実ってから、という一言で、村人も、レインも——自分も、勝手に収穫の一割だと思い込んだ。
この男は、嘘はつかない。
ただ——相手の勘違いを、決して正さない。
(やられた……)
「そもそも」
ヴァルが、わざとらしく嘆息した。
「収穫の一割をもらったところで、俺一人では食いきれん。それに、今は復興の最中だ。慈悲深い俺が、そんな——飢えた村から食い物を取り上げるような、いじめみたいな真似をするわけがないだろう」
白々しい、と思う。セリアは無言で天を仰いだ。
誰がどう見ても、後付けで言い換えている。それも、自分が一番得をする方へ。
「まあ、確かに」
ヴァルは、なおも続けた。
「いきなり寄越せと言って、今ある建物を取り上げるのも、気が引ける。だから——」
彼は、ゆっくりと広間を見回した。
「今は更地になった、教会の跡地をもらおう。ちょうど、畑の一割ほどの広さだ」
「なりません!」
弾かれたように、ハロルドが立ち上がった。
「あそこは、神聖な地です。女神様が降臨されたと伝わる場所。そんな地を、よそ者に——契約だの対価だのと言う、得体の知れぬ者に渡すなど、断じて許されぬ!」
だが、ヴァルは、ハロルドの方を見もしなかった。神官の怒りなど、最初から眼中にないという顔で、卓に向かって淡々と言う。
「損得の話だ。一割の土地は、どのみち今後もらう。それを、わざわざ何もない跡地で済ませてやろうと言っている。実のところ、村にとって今いちばん要らん場所だ。俺の、気まぐれだよ」
そして、ひと息に突き放した。
「あとは、村で決めろ」
---
村長は、腕を組んで、考え込んだ。
——教会の跡地。
今は、ただの更地だ。誰も使っていない。再建しようにも、まずは焼け残った瓦礫を取り壊すところから始めねばならない。何年先になるか、わからない。
一方で、ヴァルへの支払いは、いつかは必ずしなければならない。それが、あの跡地一つで済むのなら。
いや——それどころか。
この自称神は、おそらく、あの土地に住みつくつもりだ。村に神が腰を据える。それは、長い目で見れば、村の繁栄にとって、計り知れない助けになる。
損は、ない。
むしろ。
「……わかりました」
村長は、顔を上げた。
「教会の跡地を、ヴァル様にお譲りします。そのかわり——跡地をお渡しすれば、雨乞いの一割はこれで済んだ、ということでよろしいですね」
ヴァルが、片眉を上げた。
「……抜け目がないな」
「村長ですから」
「それでいい」
「村長!」
ハロルドが、声を荒げた。
「正気ですか! これは、おかしい。女神様への、許しがたい冒涜だ! あそこは神聖な——」
「承知しています」
村長は、静かに、しかしきっぱりと遮った。
「ですが、ハロルドさん。今回、村のために動いてくださったのは、女神様ではありません。そこにいらっしゃる、ヴァル様です。雨乞いの件も、盗賊の件も。そのお礼として、あの地をお渡しする。——村長として、私が決めたことです」
ハロルドの顔が、怒りで赤黒くなった。
彼は、すがるように、レインへと向き直った。
「レイン様! あなたは聖騎士でしょう。女神様の地が奪われるのを、黙って見過ごすのですか!」
レインは、しばらく黙っていた。
やがて、静かに答えた。
「……女神教は、信仰の自由を掲げています。信じることを、強いはしない」
「それは——」
「それに、あの教会は村が建て、村が管理してきたものです。土地をどうするかは、村が決めることです」
レインの声は、揺らがなかった。
「村長の判断を、私は尊重します」
「な——」
ハロルドが、絶句した。
味方だと信じていた相手にまで突き放され、老神官は、わなわなと震え出した。
「ありえない……こんなことが、あっていいはずが——」
「——ハロルドさん」
村長が、声に重みを込めた。
「これ以上は、見過ごせません。どうしても納得がいかないのであれば、教会本部を通して、正式な手続きを踏んでからお話しください」
ぴしゃりと、一蹴した。
ハロルドは、何か言い返そうと口を開き——けれど、言葉は出てこなかった。
「では、今日の話し合いはここまでにします」
村長が、締めくくった。
村人たちが、ざらざらと立ち上がり、それぞれの仕事へと戻っていく。決まったことの多さに、どこか高揚した面持ちで。
ヴァルも、欠伸まじりに腰を上げ、広間を出ていった。
ハロルドだけが、その場に残っていた。
去っていくヴァルの背中を、燃えるような目で、いつまでも睨みつけていた。
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*第一話 終*
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