番外編:剣聖の過去、エルレインとの出会い
その世界は、息を吸うことさえ窮屈だった。
龍の加護を受ける皇族として生まれたことは、祝福などではない。
それは、魂をすり潰して「龍の器」へと作り変えるための刑期のようなものだ。
毎日、日が昇る前から始まる地獄のような訓練。
古の叡智を詰め込むための、終わりなき勉学。
それだけなら、まだ耐えられたかもしれない。
一番耐え難かったのは、周囲の臣下たちの、品性の欠片もない視線だった。
彼らの頭にあるのはただ一つ。
誰が最も強い龍と契約し、次期皇帝の座に近づくかだ。
子供の頭を撫でるその手は、慈しみではなく、卑しい欲望に塗れていた。
(俺の将来に、いったい何があるんだ……?)
兄のように完璧な器になるか、あるいは脱落して廃人になるか。
そんな人生、生きているといっても、心はとうに死んでいるのと一緒だった。
――あの日、アストルシアの庭園で、君の泣き声を聞くまでは。
「後学のため」という名目で連れてこられた、アストルシア王国との親善パーティー。
シャンデリアの下、他国の大人が浮かべる下賤な追従の笑み。
俺はそのすべてに吐き気を覚え、隙を見て逃げるように会場を抜け出した。
外の冷気が、火照った頬に心地よい。
どこまでも広がる静かな庭園の隅へと向かったとき、不意に耳に届いたのは、風の音でも虫の鳴き声でもなかった。
「う……ひっく……。……うう……っ」
かすかな、けれど必死に押し殺そうとしている泣き声。
不思議に思って茂みの奥を覗き込むと、そこにはドレスを着た女の子がうずくまっていた。
おそらく、アストルシアの上級貴族の令嬢だろう。
その姿を目にした瞬間、俺の胸に衝撃が走った。
彼女は泣いていたのに、その瞳に宿っていたのは、悲しみでも絶望ではなかった。
(……なんだ、この目は)
涙で潤んでいながらも、その奥には強い意志の炎が灯っていた。
その瞳は、誰よりも美しく、そして猛々しく、焼き尽くさんばかりに輝いていた。
「……どうしたの?」
思わず声をかけると、彼女の細い肩がびくりと震えた。
涙を見られたくないと思ったのだろう、彼女は目元を乱雑にぬぐい、顔を背ける。
「あ……ごめん。そのままでいい。こっちを向かなくていいから。……君の、名前は?」
「…………エルレイン・ベルシュタインと申します」
かすれ切った声。
けれど、その響きは青空のように澄み渡り、芯の強さを感じさせた。
「ベルシュタイン……アストルシアの、公爵家だったかな。どうしてこんなところで泣いているんだ?」
「年が近い子が、私のことを陰で笑っていたの。……公爵家の名前にあぐらをかいているだけの、高慢で無能な女だって……」
それは、俺が帝国で受けてきた仕打ちと似ていた。
身分という色眼鏡でしか、自分を見てもらえない苦しみ。
妬み、嫉み、そして勝手な期待。
「悔しい……。本当は、こんなことで泣きたくない……! 涙なんて、何の役にも立たないのに……!」
彼女は小さな拳を握りしめ、地面を叩いた。
強くなりたい。
その切実な叫びが、俺の心の最も深い場所に突き刺さった。
「……泣きたいときは、泣いてもいいと思うよ。俺も、本当は叫びたいときがいっぱいあるから」
「だって、きっとこの先、何度も同じことが起きるわ。そのたびに、こんな気持ちになりたくない。……私は、強くなりたい。誰にも何も言わせないくらい、自分の力で立ちたいの!」
「……そう。強くなりたい、か」
俺は、彼女の背中を見つめ続けた。
(この子が笑ったら、どんな顔をするんだろう)
もっと彼女のことを知りたいと思った。
泣いている姿ではなく、この強い信念を宿した瞳が、喜びで輝くところが見たい。
笑った顔が見たい。
言葉を重ねるごとに、俺の中で凍りついていた感情が、熱を持って溶け出していく。
「それなら。……君が強くなる姿を、俺も間近で見たいな」
「え……?」
エルレインが驚いて振り返るよりも早く、俺はその場を走り去った。
心臓が、今までにない速さで鼓動を刻んでいた。
帝国に戻ってからも、俺の頭の中は彼女のことでいっぱいだった。
(……そうか、これが『好き』って気持ちなんだ……)
生まれて初めて、自分自身のために何かを欲した瞬間だった。
だが、今の俺は龍帝国の第二皇子、ルーク。
軽率に他国の公爵令嬢に婚約を申し出れば、それは純粋な想いなどではなく、無味乾燥な政治交渉の道具にされてしまう。
それに、もし権力で彼女を手に入れたとしても、それは彼女が望んだ「自分の力で強くなる機会」を奪うことにならないか。
(皇子なんて立場も、権力もいらない。……俺も、彼女と同じように、自分の足で立ちたい)
そう決意したとき、俺の中の「ルーク」は封印され、一人の男としての「ジーク」が産声を上げた。
城を抜け出す準備を整えた深夜。
月明かりの差し込む回廊で、俺は最も避けたかった男と遭遇した。
「……兄上」
「ルーク。どうした、こんな夜更けに」
そこにいたのは、第一皇子・オーウェン。
彼は、まだ寝ていなかったのだろう。
訓練用の軽装に身を包み、その手には木剣を握っていた。
「兄上こそ。……まだ、修行してたの?」
「そんなところだ。青龍との契約を完全なものにするためには、一瞬たりとも怠れないからな」
兄は完璧だった。
龍帝国が求める、理想の皇子そのものだ。
彼がいれば、俺がいなくたって帝国は安泰だろう。
けれど、俺がいなくなることで、次期皇帝としての重圧や、本来分担されるべき公務のすべてが、兄の肩にのしかかることになる。
「ルーク? 何か、言いたいことでもあるのか」
兄が怪訝そうに俺を見る。
ごめんなさい、兄上。
俺は、あなたを裏切って、自分のわがままを通そうとしている。
けれど、ようやく見つけたんだ。
この空虚な世界で、初めて「守りたい」と思える光を。
「……ううん。なんでもないよ。あんまり根を詰めないでね、兄上。……おやすみ」
「ああ。お前も、早く寝るんだぞ」
背後で聞こえる、兄の優しい声。
俺は一度も振り返らずに、自分の部屋へと戻り、そのまま夜の闇に紛れて城を飛び出した。
捨てるものに未練はなかった。
あるのはただ一つ。
あの日、庭園で見た白銀の火花のような、彼女の瞳。
エルレイン。
俺は強くなる。
君が俺を見つけたとき、君を守れるだけの、本物の強さを手に入れる。





